前々回と前回とに述べた「対立物の統一の法則」は、唯物論的弁証法の最も基本的な法則です。そこで述べたように、本当の意味での発展とは、古いものの消滅と新しいものの出現というかたちでおこなわれる変化、すなわら、質的に新しいものが生まれるような変化のことであり、そしてこのような発展の原動力となるのが、事物・現象の内部にある「対立物の統一」である、ということをこの法則はあきらかにしているのでした。
今回と次回にのべる二つの法則「量的変化から質的変化への転化の法則」と「否定の否定の法則」とは、前述のように「対立物の統一」を原動力としておこなわれる発展が、具体的にどのような姿をとって現われるか、ということを明らかにしている法則です。
弁証法の三つの基本法則として並列される場合がありますが、しかしだからといって三つの法則が同格なのではなく、「対立物の統一の法則」が弁証法の核心であり、あとの二つの法則は、発展の具体的な形態を示すことによって、「対立物の統一の法則」が述べていることを補足するという役割をもっている法則であります。
さて、「質的変化」とか「量的変化」とかいうことを説明するに先立って、先ず「質とはなにか」、「量とはなにか」をあきらかにしておかなければなりません。
質とは、事物の直接的な規定のことであります。分かり易く言えば、ある事物について「これはなんですか」と問われたとき、われわれは「それはミカンである」とか「それは
石炭である」などと答えますが、このように答えることによってわれわれは、その事物の質をあきらかにしているのです。
ある事物がそのものであるのは、その事物が一定の質をもっている限りでのことです。例えば、ミカンが腐ってどろどろになってしまえば、それはもうミカンではありませんし、石炭が燃えて灰になってしまえば、それはいまや灰
であって石炭ではありません。
このように、ある事物がその質を失えば、それはもはや元の事物ではなくなり、別の質を持った別の事物になります(例えば、灰は石炭とは別の質を持っており、したがって、石炭とはことなった事物であります。
だからそれは、石炭とはもはや呼ばれず、灰と呼ばれるのです)。このように、質はある事物を他の事物から区別しているものであり、その事物と直に結びついていて、その事物から切りはなされることができません。
だから、はじめに述べたように、質とは、事物の直接的な規定なのです。そして、ある事物がその質を失って、別の質をもつ他の事物になることを「質的変化」といいます。
石炭がもえて灰になる、というような場合に、まさにこの質的変化が起ったのです。
ミカンとか石炭とかいうような例についてだけならば、「事物」などといわずに「物」といった方がわかりやすいでしょう。それをわざと「事物」ということばを使ったのは、質とか質的変化とかいう場合に念頭におかれているのは、ミカンや石炭のように手でつかめる物についてだけではないからです。
例えば、封建制とか資本主義とか社会主義などというのも、それぞれ、社会のあり方を直接に規定している「社会の」質であります。
例えば、生産手段の私的所有(ある個人が、または株式会社などが生産手段を所有していること)と生産の無政府状態(社会全体としての生産計画がないこと)とが、資本主義社会を資本主義社会たらしめているもの、すなわち資本主義社会の質なのであり、社会主義革命によってこの質が変化させられ、生産手段の社会的所有と生産の計画性という新しい質をもつ社会が生まれれば、これはもはや資本主義社会ではなく、それとは質的に異なった、社会主義社会なのであります。
つぎに、量とは、質的規定の無関心性を前提とする事物の第二次的規定であります。これは大変分りにくい言い方ですが、正確に言おうとするとこういう言い方になります。
まず「質的規定の無関心性」とはなんのことでしょうか。
ここにミカン、ナシ、リンゴなどが有るとします。 「果物が幾つ有りますか」ときかれると、われわれは、1つ、2つ………とかぞえて、「12ある」とか「15ある」などと答えるでしょう。この場合に、ミカンとリンゴとナシは、それぞれ質が違っています。だがいまの場合には、われわれはその質の違いを考えない、つまり無視してしまうのです。
そして、ミカンでもリンゴでも、果物であるという同じ質を持つものだと考える訳です。これは、ミカンとかリンゴとかのそれぞれの質に関心をもたなくなることですから、このことを「質的規定の無関心性」という訳です。
こうして、ミカンとかリンゴとかの質的規定に無関心になってはじめて、ミカンも「1つ」であり、リンゴも「1つ」である、つまり同じ資格をもったものだと考えることができるのであり、そこではじめて、1つ、2つ………と数えることができるのです。
このようにして数えた結果得られた、12とか15とかいう答えが、この場合の量的規定なのであります。
もう一つ別の例をあげましょう。五角形と六角形があるとします。どちらの方が面積が大きいかを知りたいとき、われわれはどうするでしょうか。
このように面積を比較するということがすでに、この2つの図形の量的規定を問題にしていることなのですが、その場合には、五角形と六角形との質のちがい(この場合には形のちがい)はすでに無視されています。
われわれは、適当に対角線をひいて、五角形を3つの、六角形を4つの三角形にわけるでしょう。そして、それぞれの三角形の底辺と高さを測り、「底辺かける高さの二分の
一」という公式を使ってそれぞれの三角形の面積をだし、それからたし算をやって、五角形と六角形の面積をそれぞれ計算し、最後に、両方の数値を比較して、そこではじめてどちらの面積が大きいかが分かる訳です。
面積とは図形の量的規定である、ということを既に申しました。
だが、いまの手つづきからわかるように、この面積という量的規定に至る為には、われわれは五角形と六角形との質の違いにまず無関心にならなければなりません。
このように質的規定に無関心になってはじめて、どちらの図形をも、いくつかの三角形の集まったものという、同じ質をもつものとみなすことができるのであり、そこではじめて、
前述のように面積を計算することができるのです。
そんなめんどうなことを言わなくても、量とは、数えたり測ったりして、その結果を数で表わすことのできるものだ、と言えば良いではないか、という人があるでしょう。
たしかに、多くの場合に、量とはそのように考えられています。そう考えても全然まちがいだともいえないけれども、しかしそれでは、第一に、質と量との関係がなんらしめされないという欠点があるし、第二に、不正確なのです。
第二の点からさきに申しますと、数学の一分野として「集合論」というものがあり、数年前までは高等学校以上でしか教えなかったけれども、最近では小学校でもその初歩的な部分を教えるようになりました。
ところで、この集合論で取り扱われる法則は、かぞえたり測ったりした結果えられるものではなく、また数字で表わせるようなものでもありません。
しかし、質的規定の無関心性を前提とする事物の第二次的規定を取り扱っているのだ、ということはいえます。
つまり、量を、前述のように定義しておけば、集合論は量を取り扱っているのだ、と言える訳です。もっと高等な数学にでてくる「同型対応」とか「準同型対応」 (こんな言葉を並べただけではなんのことかわからないでしょうが、説明を省きます。かんべんしてください)なども、量を前述のように定義しておけば、量的な関係を表わすものだといえるので、結局、数学はすべて量を研究対衆とする科学だということができるのです(だがこのことは、入門講座には難しすぎる話でした。わからなくても次に進む妨げにはなりません)。
より大切なのは第一の点です。マルクスは『資本論』の第一章で、商品を分析して価値を発見するにあたって、「1クォーターの小麦=2ツェントナーの鉄」というような等式を問題にしています。
等式ですから、左辺の量と右辺の量とが等しい、ということが示されている訳です。だが、小麦と鉄との使用価値はまったく違っています。
この使用価値としての質にたいして無関心にならなければ、量的関係としてのこの等式を理解することはできません。量は質的規定の無関心性を前提しているのだからです。
だがさらに、前述の例で、「果物である」という共通の質、「いくつかの三角形の集まりである」という共通の質があってはじめてそれらの量を問題にすることができたように、この場合にも、左辺と右辺が等号(イクォール)で結ばれる為には、小麦と鉄とに共通の質が発見されなければなりません。
というのは、さきの等式は、「同じ大きさの一つの共通物が、二つのちがった物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにも2ツェントナーの鉄のなかにも、存在する」ということを表わしているからです。
この共通物、すなわち共通の質は何かと言えば、前述のように使用価値としての質の違いには無関心になっているのですから、それぞれの商品体に残るものは、もはやただ「労働の生産物である」ということだけだ、ということがわかります。
このような推論をおこなうことによってマルクスは、「価値を形成する実体」が「抽象的人間労働」である、という結論を導きだしているのです。
商品の価値を量的に比較するにさきだって、諸商品に共通の質はなにかがあきらかにされなければならない、というようにマルクスが議論をすすめていることは、質が事物の直接的規定であるのに対して、量は質的規定の無関心性を前提とする事物の第二次的規定であることを、マルクスがはっきりと意識していたことをしめしています。
この場合にかぎらず、事物の質と量について考える場合には、まず質を、それから量をという順序をふまなければならないのであり、その逆に、いきなり量を取り上げてはいけません。
量は常になにかの(すなわち、なんらかの共通の質の)量なのですから、この共通の質がなんであるかをあきらかにしないで量を論じることはできないのです。
さて、量は、質のように事物とじかに結びついた直接的規定ではありませんから、ある事物の量的規定が変化しても、いきなりその事物が他の事物になる、ということはおこりません。
体重20キログラムのこどもが成長して25キログラムになっても、子供であることには変わりが無いし、長さ1.2メートルの杖が長年使っているあいだに、先が磨り減って、1.18メートルになっても、杖であることに変わりはない、等々のように。―――しかし、いつまでも常にそうだという訳にはいきません。
こどもは成長してゆくといつか大人になりますし、杖もひどく短くなれば杖としての役にたたなくなります(杖であるという質を失うにいたります)。
つまり、量的変化が引き続き行われると、それが質的変化に転化するときがいつかくるのです。
つぎにこのことを詳しく述べましょう。
質問があります。量についてはくわしい説明がありましたが、質というのがよくわからない。
質と性質とはちがうのですか。
ちがいます。一つの物がいろいろな性質をもっています。
例えば、食塩は、目でみれば白い。舌でなめればからい。指でさわればざらざらする。白い・からい・ざらざらする―――これらはすべて食塩という物の性質です。
食塩をわざわざ染めて使う人はないでしょうが、例えばの話として、赤い染料で食塩に赤い色をつけたとします。そのときには、白いという性質が失われて、そのかわりに赤いという性質をもつようになります。
しかし、こうして一つの性質が変わっても、食塩が食塩でなくなる訳ではありません。それはいぜんとして食塩である訳で、この食塩であるということが、この物の質なのです。
食塩は動物が生きてゆくのにぜひ必要なものです。食塩は水にとけて食塩水になります。もはや指でさわってもざらざらしません。
しかし、食塩水を飲めば、動物の体内で、ざらざらする食塩を直接になめた場合と同じ
働きをします。水にとけたからといって、動物の身体にあたえる食塩の働きに変わりはないのであり、食塩の質はやはり変化していないのです。
しかし、食塩を電気分解して、ナトリウムと塩素にわけてしまえば、それはもう食塩ではありません。 このときには、食塩はその質を失ったのであり、ナトリウムと塩素という別の質をもつものになったのです。
話をわかりやすくするために、食塩という同じ物が人間のことなった感覚器官にたいして、ことなった性質をあらわす、ということを最初に例にあげました。
しかしこれは、性質とは人間にとってのみあるもの(主観的なもの)だ、という意味ではありません。一定の質を持った物は、人間の感覚器官にたいしてだけでなく、他の物と相互作用をする場合に、ある性質をあらわすのです。
前の例のなかでも、食塩は水にとける、といいましたが、これは、食塩が水と相互作用して、その結果、「とける(溶解する)」という性質をあらわす、ということを意味しています。
このように、ある物の性質は、その物と他の物との相互作用のなかにあらわれるのです。―――これに対して質とは、他の物との相互作用があるなしにかかわらず、その物を(例えば食塩を)その物(食塩)たらしめている直接的な規定(すなわち、食塩であること)であります。
だが、そういったからといって、質と性質とは無関係ではありません。
例えば、石英がこまかく砕けてできた砂は、目でみれば白く、指でさわればざらざらします。このかぎりでは食塩と同じです。
しかしこの砂は、舌でなめても辛くないし、水に入れても解けません。このように、二つの物(例えば、食塩と砂)があって、それらを他の多くの物と相互作用させるとき、一部分では同じ性質をあらわすが、他の部分ではちがった性質をあらわすという場合に、このことを通じて、われわれはそれらの二つの物が違った質をもっている、ということを知ります。
もしも、どんなに多くの他の物と相互作用させても、つねに同じ性質をあらわすならば、それらの二つの物は区別することが出来ず、従って同じ質を持つ物、つまり同じ物だと言うことが分るでしょう。
又、ある物の質という場合に、一つの物には必ず一つの決まった質がある、というように固定的に考えてはいけません。
例えば、ガラスの灰皿とコップと眼鏡のレンズは、ガラス製品である、という共通の質をもっています。だがまた、ガラスの灰皿と鉄の灰皿とは、灰皿であるという共通の質をもっています。
ガラスの灰皿という一つの物を、「ガラス製品である」という質をもつものと考えることもできれば、「灰皿である」という質をもつものと考えることもできるのです。
この違いは、材料の面からとらえるか、使用目的の面からとらえるか、という違いです。
一つの物をいろいろな面からとらえることができますから、それによって、異なった質がとらえられるわけです。
前の例で、固体の食塩も水にとけた食塩もその質は変わらない、といったのは、動物が生きてゆくのに必要な物質としての面からとらえてそういったのであって、固体か液体かという面からとらえれば、もちろんその質は変化したのであります。
まずはじめに、あらゆる事物は質的規定と量的規定との両方を必ず持っている、ということに注意をうながしておきます。
ある事物がどういう事物であるかと言うことは、その質によってきまるのですから、質的規定をもたない事物というものはありません。
同時に、その事物は、長さ・重さ・温度などの、いくつかの量的規定をもっています。温度が30度の1リットルの水とか、面積が80平方キロメートルで人口20万の都市、などというぐあいに。
さて、前々回に対立物の統一の法則を説明するさいにすでに述べたことですが、事物の自己運動・発展の原動力は、その事物にふくまれている対立物の闘争です。たがいに排除しあうという性質をもっている対立物が一つの事物のなかに統一されていると、これらの対立物のあいだに必然的に闘争がおこり、しかもこの闘争が激化してゆき、その結果、一方が他方に打ち勝つ時が来る―――このとき、その事物に変化・発展がおこるのだ、という意味のことをのべました。
ところで、対立物の闘争が激化してゆく過程というものは、だんだんとそうなってゆく、つまり漸次的変化というかたちをとります。それは、その事物の量的変化として表面にあらわれてくるのです。
例えば江戸時代の中期は社会的変動のあまり目だたない時期でしたが、それでも封建領主(大名)やその家臣である武士と百姓(農民)とのあいだに階級闘争がだんだんと激化していったのであって、それは百姓一揆の件数の増加とか、これに参加する人数の増加として、つまり量的変化として表面にあらわれたのでした。
しかし、封建的支配階級の力にくらべて農民のたたかう力がまだ弱かっ たので、百姓一揆はそのたびに鋳圧されてしまい、この社会は全体として比較的安定した姿をとっていました。
つまり、封建勢力と農民という対立物が、闘争しながらも、封建勢力の優位のもとで一つの社会形態のなかに統一されていたのです。
しかし幕末時代になると、大名たちが財政的に苦しんで大商人たちから借金をしたり、また諸外国の帝国主義的勢力が開港をもとめて、いわゆる黒船が下関や浦賀あたりまでおしかけてくるという情勢のなかで、封建的支配階級がその無力であることを暴露すると同時に、農民の生活はますます苦しくなり、その反封建勢力としてのたたかう力を強めてゆきました。
こうして両者の力関係がまさに逆転しようとするにいたったのです。その結果、江戸中期にはみられなかった激動がつぎつぎにおこるようになり、下級武士までが徳川幕府に反対する行動をおこすようになり、ついに明治維新という爆発的なできごとがおこつたのであります。
明治維新は、ブルジョア民主主義革命としてはきわめて不徹底なものでしたが、それでもやはり、封建制度から資本主義への道をきりひらく、日本の社会の質的変化のはじまりでした。それまでの量的変化がここで中断されて、一つの飛躍がおこつたのです。
前々回に引用した、二つの発展観を述べたレーニンの文章の、第二の〔弁証法的な〕発展観を特徴づける叙述のなかに、「飛躍」、「漸次性の中断」ということばがありました。
さきに述べたように、量的変化は漸次的に起こる変化です。だがこの量的変化は、ある限度まで達すると、質的変化へと転化します。つまり漸次性が中断され、飛躍がおこるのです。飛躍とは質的変化のことにほかなりません。
古い質と新しい質とは(例えばいまの例では封建制度と資本主義とは)あきらかに違ったものであり、古い質から新しい質に変わるということは、飛躍というかたちをとってあらわれるのです。
いままでに述べたことを定式のかたちで述べてみましょう。
「全ての事物の変化は、先ず量的変化として起こるが、この量的変化がある段階に達すると、それは質的変化に転化する。すなわち、量的変化の特徴である漸次性が中断されて、飛躍がおこるのである」。―――これが、「量的変化から質的変化への転化の法則」とよばれているものの内容です。
いくつかの注意をつけくわえておきましょう。
今述べたようなかたちで、すなわち量的変化がある段階まで蓄積されたのちに、それが質的変化に転化するということは、発展の場合だけでなく、往復運動や循環運動としての変化の場合にもあてはまります。
よく例にかかれる加熱による水から水蒸気への質的変化(この場合には、液体か気体かということが水の質としてとらえられている)、すなわち、一気圧のもとでは、100度にいたるまでの水の温度の変化はまさに漸次的に量的
変化としてあらわれるが、100度に達すると沸騰がおこり、温度の上昇は中断され、急速に水は水蒸気に変化するという現衆は、水蒸気は冷却されればまた水になるから、往復運動としての変化です。
いま述べたように、この場合にも「量的変化から質的変化への転化」がみられるわけです。
だが、量的変化から質的変化への転化ということにわれわれが注目しなければならないのは、なによりもまず発展の場合、新しい質への転化がおこる場合なので、この法則を「発展の法則」の一つとしてあげるのです。
つぎに、一つの事物はさきに述べたようにいくつかの量的規定を持っています。だから、どの量の変化に注目するか、ということがこの法則を具体的な問題に適用する場合に問題になります。
水から水蒸気への変化をとりあげる場合には温度の量的変化を考えなければならないのであって、体積の量的変化を考えてもなんの役にもたちません。
だからそれぞれの場合に、先ずどのような質的変化が期待されているかを考え、その質的変化に関連している種類の量をみいだす必要があります。
そしてそれには、対立物の統一の法則にまでもどって、問題になっている事物のなかでどのような対立物の闘争がおこなわれているか、をみいだす必要があります。
これがわかれば、この闘争の激化がどのような量の変化として表面にあらわれるかということは、比較的容易に理解できるでしょう。