最初にひとつ質問をさせてもらいます。前回に「量的変化から質的変化への転化」について述べられたなかに「量的変化は漸次的におこる変化です」とか「量的変化の特徴である漸次性」
とかいう言葉があって、量的変化といえばすべて漸次的な変化、「つまり、だんだんとそう なってゆく」という仕方でおこる変化だという ように説明されていますね。
ところがですよ。
エンゲルスの『反デユーリング論』の「第一編 第12章 弁証法。量と質」というところをよむと、そこにはですねえ、C2H2nO2というような化学式みたいなものがでてきて、このnを1、2、3、………とおきかえてゆくと次々に、CH2O2(蟻酸)、C2H4O2(酢酸)、C3H6O2(プロピオン酸)、C4H8O2(酪酸)、C5H10O2(吉草酸)、などになる、ということが書いてあって、「こうしてここには、諸元素を単純に量的に追加することによって、しかもつねに同一の比で量的に追加することによって形成される、質的に異なった諸物体の全系列をみるのである」といっているんですよ。
ここでエンゲルスがいっていることによればCH2を量的に追加すれば、次々に化合物の質が変わってゆく、という訳ですよね。そこで、この場合に、質的変化
の方はいいとして、というのはつまり、蟻酸と酢酸等々が質的に違うということはわかるとして、量的変化の方が、この講座で前回に述べられたこととは違うのではないか、つまり、CH2がつけくわわるということは、炭素原子一つと水素原子二つがいっペんに増加するということであって、漸次的変化ではないじゃあないか、と思うんですよ。
だけど、エンゲルスはこういうのも、nが次々に1、2、3………になっていくという意味で、量的変化のなかに.いれている。そうだとすると、この講座で前回にいっているように、量的変化とは漸次的変化だというように説明するのは、おかしいのではないか、と思うがどうですか。
いい質問です。つまり、よく勉強している人でなければ出せない質問です。感心しました。お答えしましょう。
エンゲルスは『自然の弁証法』でも同じような例をあげています。そこには「へーゲルによって、発見されたこの自然法則が最大の勝利をおさめた領域は、化学の領域である。化学は、組成の量的な変化による物質の質的な変化に関する科学と呼ぶことができる」と書いてあります。
たしかにここには「組成の量的な変化」ということばが使われています。しかし注意しなければならないことは、CH2を次々に付け加えてゆくといっても、それは化学式のうえでのことであって、実在している炭素化合物に次々にCH2を化合させて、例えば蟻酸から酢酸が、酢酸からプロピオン酸がつくられる、という意味ではない、ということです。
有機化学は、非常に多数ある炭素化合物を整理して見通しよく研究するために、これをその化学的構造にしたがって分類しています。
炭素原子が一列につながっている構造をもつものを鎖式体といい、ベンゼンのように環になっているものを環式体といいます。
鎖式体ではCH2がふえるほど鎖が長くのぴていく形になる訳で、1分子のなかに含まれているCH2の数が違うだけで、その他の原子の数や結合状態が同じである化合物をひとまとめにして「同族列」とよんでいます。
エンゲルスがとりあげているのは、このような同族列のなかで、それぞれの化合物のなかに含まれているCH2の数がふえてゆくと、その化合物の質が変化してゆく、という問題です。
つまり、さきの例で、蟻酸、酢酸、プロピオン酸、酪酸、吉草酸などが並べられるのは、有機化学の研究上の分類として、これらの化合物が「飽和脂肪酸列」という同族列に属しているからなのです。
同族列に属している化合物をならべてその分子式を観察すると、たしかにエンゲルスが述べているようなことがいえます。
しかし注意しなければならないことは、あくまでもこれに分子構造をたがいに比較すると、同族列のなかの化合物のあいだにはこういう関係があることがわかる、ということなのであって、このような関係を発見することは、確かに極めて多数存在している炭素化合物を整理して認識するのに大切なことに違い有りませんけれど、しかし、同族列に属する化合物が炭素原子の数が1個のものから、次々にCH2を化合させることによってつくりだすことができるとか、実際にそのような順序でつくりだされたものだとか、主張しているのではない、ということに注意する必要があります。
例えば、酢酸(C2H4O2)は、合成法でつくられる場合でも、蟻酸からつくられるのではなくて、アセチレン(C2H2)に水を作用させてアセトアルデヒド(C2H4O)をつくり、これをマンガン塩、コバルト塩などを触媒にして空気酸素で駿化することによってつくられるのです。
以上のことを頭にいれて読むならば、エンゲルスが「諸元素を単純に量的に追加すること」とか「組成の量的な変化」とかいっているのは、いろいろな化合物(とくに同族列に属する諸化合物)をその分子構造について比較した場合にみいだされる関係を念頭においていっているのであって、つまり化合物の構造上にあらわれる量的なものの変化をいっているのであって、ある化合物が合成されてつくられる実在的な過程にあらわれる量的な変化をいっているのではない、ということがわかるでしょう。
このような場合をも「量から質への転化」と呼ぶことができるのは確かにそのとおりですが、それはより正確に表現すれば、「量的規定の質的規定への転化」というべきであって、この場合にはそれは一つの「構造法則」を与えているのであります。
これにたいして、この講座でとりあげてきたのは、第九回以来、「発展法則」としての弁証法の基本法則についてであります。
前回に「量的変化から質的変化への転化の法則」について述べた場合にも、なによりもまずこれを「発展法則」としてとらえることが重要だと考えて、封建制から資本主義への発展の場合を実例としてとりあげ、そのあとで、追加として、この法則は往復運動や循環運動としての変化にもあてはまることを指摘し、よくひかれる加熱による水の水蒸気への質的変化のことに言及したのであります。
そして、物質の実在的な変化について語る場合には、発展の場合にも、また往復運動などの場合にも、量的変化は漸次的変化として現われるので、そのように説明したのです。
化学の領域から例をとれば、次のような場合があります。アンモニウム・シアナートと尿素とは、一分子のなかに含まれる元素の種類と原子の数が同じなので、ともにCN2H4Oという分子式で表わすことができるのですが、その構造(原子の結合の仕方)が違っています。
アンモニウム・シアナートは構造式で示せば(NCO)NH4という形で原子が結合しているのですが、このアンモニウム・シアナートの水溶液に熱を加えると、
(CO)(NH2)2という構造式をもつ尿素に変化します。
これは実際におこる変化(実在的変化)です。そして加熱することはエネルギーを与えることに他なりませんが、このエネルギーの供給はまさに漸次的変化としての量的変化としておこなわれ、この量的変化が一定の限度に達すると、さきに述べたような、同一の分子内における原子の結合の仕方の変化(分子構造の変化)がおこり、これが質的変化(アンモニウム・シアナートと尿素とはまったく異なった化合物としての質をしめすから)にほかならないのです。
すなわち、エネルギーの漸次的な量的変化をとおして、化合物の実在的な質的変化がおこるのであります。
さて、今回は、やはり発展法則の一つである「否定の否定の法則」について述べるのですが、それにさきだって、まず「否定」について述べておかなければなりません。
「否定する」ということばが最も日常的に使われるのは、「論理的否定」の意味で使われる場合でしょう。 論理的否定というのは、「AはBである」という主張に反対して、これを「AはBでない」と打ち消すことを意味します。
論理的否定を二度くりかえすと、それは完全にはじめの主張に戻ってしまいます。「(AはBでない)でない」というのは、「AはBである」というのとまったく同じで、それ以上のことをもそれ以下のことをも意味しません。
――ある便所のなかにこんな落書きがありました。「民青反対」と書いてあり、その下にそれぞれ違った筆跡で、「に反対」といくつも書いてあります。この落書きは全体でなにを意味するでしょうか。
「反対」という文字が何回書かれているかをかぞえればわかります。奇数回ならば「民青反対」という意味であり、偶数回ならば「民青支持」という意味です。
「……に反対」という打ち消しが二回つづけば、それは消去されてもとの主張にもどる訳ですから。
われわれが弁証法で問題にするのは、こんな他愛の無い論理的否定のことではありません。事物が変化し発展する場合には、そこになんらかの「否定」がおこなわれたことがみいだされます。
例えば、社会が社会主義革命によって資本主義体制から社会主義体制へと発展する場合には、生産手段の私有が否定されます。
資本主義体制のもとでは生産手段が一部少数の人びとによって私有されており、これらの人びとはこの生産手段の私有をてこにして、他の人びとを経済的に隷属させ、支配し、みずからは支配階級になっているのです。
だが社会主義体制のもとでは、生産手段の私有はなくなっており、それにかわって、生産手段の社会的所有がおこなわれているのであります。
この場合に、「否定」というのは論理的否定という意味ではなく、すなわち、ただ「……でない」と主張することをいうのではなく、実際になくなることをいうのであり、実在的否定を意味しています。
ここで注意しなければならないのは、否定される(存在したものが存在しなくなる)のは、生産手段の私有であって、生産手段そのものではないということです。
もしも社会主義革命によって生産手段そのものが否定される、すなわち破壊されてしまうのだとすれば、生産力が低下してしまい、そんなことになれば社会主義社会の建設などできる訳がありません。
スターリンは「ひところ、われわれのあいだに、十月変革後わが国に残された鉄道はブルジョアのものであり、われわれマルクス主義者がこれを利用するのはふさわしくないから、こわしてしまって新しい『プロレタリア』鉄道をつくらなければならぬ、と主張した『マルクス主義者』があった。かれらはそのために『穴居人』〔野蛮人という意味〕というあだ名をもらった」(『言語学におけるマルクス主義について』)と書いています。
もしもこれがつくり話ではなくて、本当にそんな珍妙な「マルクス主義者」がいたとすれば、そしてそんな人が革命を指導したとしたら、社会主義革命は社会そのものを破壊してしまうことになるでしょう。
以上に述べたことからわかるように、事物の発展過程に現われてくる実在的否定は、その事物の全体を否定する(破壊したり、存在させなくする)のではなくて、その事物のある側面、またはある性質を否定するのであります。
このことは、その反対の面からいうならば、事物の発展過程において、その事物のそれ以外の側面または性質は保存される、ということを意味します。ただ保存されるだけでなく、ある側面または性質は、拡大され、高められ、成長させられもします。
まえの例についていえば、社会の生産力は、社会主義革命によって生産手段の私有が否定(廃棄)され、それが社会的所有に移されることによって、保存されるばかりでなく、拡大され、高揚させられて、資本主義社会の生産力であった時代よりも著しいテンポで発展するようになるのであります。
発展過程のなかには、このように、一方には否定の契機(モメント)が含まれていますが、他方にはまた肯定の契機が含まれています。 しかもこの肯定の契機は、否定の契機なしには存在することができません。
既に古くさくなって、全体が発展するのを妨げている側面や性質を否定すること無しには、全体の発展を促進する側面や性質を成長させ、そのことによって全体を発展させることはできません。
このことに、発展における否定の重要な役割があるのです。
レーニンは『哲学ノート』につぎのように書いています。
「弁証法は疑いもなく否定の要素を、しかもその最も重要な要素として含んでいる、
――この弁証法で特徴的であり本質的であるのは、たんなる否定でもなければ、いたずらなる否定でもなく、………肯定的なものを保持した、すなわち、どんな動揺もなく、どんな折衷主義もない、連関の契機としての、発展の契機としての否定なのである」(国民文庫版)。
発展過程に否定が現われるということは、この講座の第十一回に述べた「対立物の相互移行」と深く結びついています。たがいに対立している傾向・力・性質・要因などは、対立しているという正にそのことによって、たがいに否定しあう関係にあります。
だから、たがいに対立している傾向・力・性質・要因などが事物の発展過程で相互に移行するということは、ある傾向・力・性質・要因などが否定されて、それに対立していた(すなわち、まえのものと否定の関係にある)もう一つの傾向・カ・性質・要因などがそれにとってかわる、ということなのです。
さて、以上に述べたように事物の発展過程には否定が現われてくるのですが、それは、その事物の発展過程で一度だけ現われてくる、といったものではありません。
一つの事物が長い発展の過程をあゆむ場合に、否定は何度も繰り返して現われます。
そのことを「否定の否定」といいます。「否定の否定」といったからといって、否定は二度だけおこる、という意味ではありません。「否定の否定」といって、否定ということばを二度くりかえすことによって、否定が反復される、ということを意味しているのです。
さて、ここで問題にしている否定は、さきに述べた論理的否定では有りませんから、ただ単に 「……でない」という場合とはちがって、二度繰り返したからといって、決して出発点に戻る訳ではありません。
けれども、否定が繰り返されることによって、必ずしも二度目の否定によってという訳ではなく、二度目の場合もあれば、それ以外の何度目かの場合もあるのですが、以前の段階に現われたある特徴または性質が、再び現われてくるということがおこります。
この場合に、この特徴または性質だけに注目すると、その事物は古い状態に復帰したように見えるでしょう。
例えば、人類は、猿から進化して人間になって以来非常に長いあいだ、「原始共同体」とよばれる社会形態をなして生存してきました。
原始共同体は無階級社会であり、生産手段は共同体が所有していたのです。ところが、生産力が発展した結果、奴隷所有がはじまり、ここに無階級社会から階級社会への移行(第一の否定、対立物の相互移行)がおこなわれ、また生産手段の共同所有は否定されて、生産手段の私有がはじまったのです。
奴隷制、封建制、資本主義の三つの社会体制を通じて、階級社会であり、生産手段が私有されている、という特徴は保持されましたが、さきに述べたように、社会主義革命によって生産手段の私有は否定されて、生産手段の共同所有という特徴が回復されます。
さらに社会主義社会が発展して、生産力が著しく高度に発展することにより、こんどは革命なしに、共産主義社会への移行がおこなわれる場合には、労働者と農民との区別もなくなり、あらゆる意味での階級が消滅して、無階級社会になります。
こうして原始共同体のもっていた二つの特徴がともに回復されます。
この場合に、奴隷制、封建制、資本主義をひとまとめにして、階級社会というようにとらえれば、社会主義・共産主義への移行は二度日の否定だということになり、「否定の否定」によって前述の特徴がふたたび現われたことになります。
だがまた、奴隷制から封建制への、また封建制から資本主義への移行も、生産関係の変化としての限りではそれぞれ一つの否定ですから、その意味で数えるならば、社会主義・共産主義への移行は四度目の否定だということになります。
だが、さきに述べたように、何度目の否定によるかということは、この場合にどうでもよいことなのです。
「否定の否定」というのは「否定の反復」という意味なのですから。どちらの数え方をするにせよ、とにかく、社会主義・共産主義への移行という偉大な否定によって、無階級社会と生産手段の共同所有という特徴が回復されるのであり、こうして社会は原始共同体という古い状態に復帰したようにみえるのです。
だが「……のようにみえる」ということは、「……である」ということではありません。
すでにこの講座の第十回に、質問に答えて述べておいたように、共産主義社会において無階級社会へと帰るということは、出発点に帰るという意味での「循環運動」ではありません。
原始共同体と将来の共産主義社会とは、生産力の水準の全く違った社会状態であり、同じ「無階級」という特徴をもっているとはいえ、その内容は全く異なっているのです。古い状態への復帰は、ただそのように見えるということに、すなわち外見上そうだということにすぎないのです。
だからレーニンは、『哲学ノート』で「低い段階の一定の特徴、性質、等々の高い段階における反復、および、古いものへの外見上の復帰(否定の否定)」と述べたのであります。
またレーニンは著作『カール・マルクス』で、「すでに経過した諸段階を繰り返すかのように見えながら、以前とは違った仕方で、いっそう高い基盤のうえでそれを繰り返す発展(「否定の否定」)、直線的におこなわれるのではなしに、いわば螺旋を描く発展」だと述べています。
この「螺旋をえがく」という説明は、発展の姿をわかりやすく直観的にしめしてくれます。
同一平面上で円をえがくならば、コンパスのさきは一まわりして出発点にもどるほかありません。しかし、まわりながら、立体的に、出発点のあった平面から上にあがってゆくならば、一まわりしたときに、ま上から見れば出発点と同じ位置にありながら、横からみれば出発点よりもずっと高い位置にあることになります。
こうした姿を思いうかべてみると、無階級・生産手段の共有という特徴については原始共同体と同じであるけれども、将来の共産主義社会がずっと高い位置にあるということが、わかりやすいかたちで頭にはいると思います。
以上に述べたことからわかるように、「否定の否定の法則」は、発展の道すじの全体の姿を、すなわち、発展過程をはじめから終わりまでずっと見わたした場合にそれはどんなかたちをしているかということをしめしている法則です。 この姿をレーニンは「螺族」ということばで直観的にあらわしたのでした。
さきに発展における否定の役割について述べたときにふれておいたように、「否定」は「対立物の相互移行」と深く結びついています。
そのことはまた、「対立物の統一の法則」と、「否定の否定の法則」との関係を正しく理解することを要求してもいるのです。
発展の全体としての姿が、直線的ではなくていわば螺旗を描くようなかたちをとるという
ことも、対立物の統一と闘争が発展の原動力をなしていればこそであります。
というのは、対立物の闘争が激化することによって、対立物の相互移行が起る訳ですが、さきに説明したようにこれは「否定」でもある訳で、この否定の作用によって、発展の道すじは直線的ではなく曲げられて行く訳です。
また、否定がおこるということは、やはりさきに述べたように、すべてが無くなることではなく、ある側面は否定されるけれども、他の側面は保存され、成長させられるという肯定の契機をもっているので、同一平面上にとどまることなく、上方に上って行く道すじを取る訳です。
このようなことが反復されることによって、発展の道すじは螺族状になる訳です。
もちろん直線的とか螺族状とかいっても、これは直観的に分りやすく言う為に比喩的に言っているのであって、幾何学的な意味で厳密にそういうかたちをしているということではありません。上にのぼりながら出発点にもどるような方向をとり、それをくり返すということを「螺族」ということばで説明しているのです。
対立物の統一の法則は、発展過程のどの段階でもはたらいています。対立物の統一と闘争こそが発展の原動力なのですから、発展過程のどの段階でも、この法則の作用がみいだされないということは有り得ないのです。
もしもこの法則が作用していないとすれば、発展は起らないことになってしまいます。
ある段階でこの法則の作用がみいだされないとすれば、そこまでは発展してきても、そこで発展が止まってしまうことになるでしょう。だから、そんなことは有り得ない訳です。
ところが、否定の否定の法則のはたらきは、発展過程のある一つの段階をとっただけではみいだされません。
この法則は、発展過程の全体の姿をしめす法則ですから、一つの段階だけではそのはたらきをみることはできず、発展過程の全体をとらえたときにはじめて、この法則がはたらいていることを認めることができるのであります。