悟性と理性

この講座の第16回に、人間の認識能力を区別する場合に、まずこれを感性と理性とに区別するが、このように感性に対して「理性」という場合には、「理性」という言葉が広い意味に使われているのであって、さらにこの(広い意味の)理性を、悟性と(せまい意味の)理性とに区別する、ということを述べました。

さらに、イヌが自分の飼い主とそれ以外の人間とを区別する場合とか、白ギツネが鉄砲じかけのしてある肉をうまく取る場合とかの例をあげて、動物でもたんに感性的段階の認識だけにとどまらない場合があることを述べ、しかしこれは悟性的能力であって理性的能力ではない、せまい意味での理性的能力は人間だけにある、ということを述べました。では、悟性的能力と理性的能力とはどうちがうのでしょうか。今回はそのことを中心にして述べましょう。

 

1 悟性のはたらき、(1)分析と総合

まず「悟性」という言葉について一言しておきます。
これは明治時代の人が外国語を翻訳するためにつくった言葉で、いやな言葉です。というのは「悟」という字は「さとる」とよみますが、「さとる」というとなにか宗教的な匂いがします。
しかし「悟性」という言葉は宗教とはまったく関係がないばかりか、「さとる」という意味にも関係がないのです。

だから「悟性」という言葉はその文字づらからして、非常に誤解を与えやすい嫌な言葉なのです。
英語では「アンダースタンデイング」と言うのですが、「アンダースタンド」とは「理解する」という意味ですから「理解能力」とか、せめて「解性」とでも翻訳しておいてくれたら良かったのに、と私は思うのです。
だが、言葉は社会的なものですから、百年近くも使われてきたものを私が勝手に変えることはできません。「悟性」という言葉を使いながら、その意味を誤解されないように説明してゆくほかありません。

「悟性」とは、まず、分析したり総合したりする能力です。
時計や自転車のようなものを、歯車とか心棒とかの部分に分けることを「分解する」と言います。
分解できるのは、そのものが、独立して存在できる部分から成りたっている場合に限られます。 歯車や心棒は、それだけで独立して存在することができますから、時計は分解することができます。
だが、例えばリンゴからその皮の赤い色とか、実の甘ずっぱい味とかを分解することはできません。 色や味はそれだけで独立して存在することができませんから、リンゴを色や味に分解することはできないのです。

しかしそれらを分析することはできます。
「分析する」とは(化学で化合物を「分析する」という場合の「分析」はここで言っている「分析」とは意味が違いますから、今はそのような場合は考えないことにして下さい)、頭のなかで要素に分けて考えることです。

時計のように部分に分けられるもの(分解できるもの)を、実際に分解するのではなく、ただ頭の中だけであの部分この部分というように分けて考える場合も「分析する」といいますが、さらに、実際には分解できないものを、たとえばリンゴの色とか味とかを頭のなかで分けて考えるのも「分析する」と言います。
われわれが例えば「あのリンゴは色は良かったけれど味が悪かった」などと考える場合に、われわれはこのような「分析」を実際にやっているのです。

つざに「総合する」というのは、分析によって要素に分けられたものを、ふたたび結びつけて考えることです。
例えば、国際情勢について考える場合に、社会主義陣営の諸国は、また資本主義陣営の諸国は、とか、アフリカの新興独立諸国は、アラブ諸国は、中南米の諸国は、とかいうように、分けて次々に考えてゆく場合に、われわれは国際情勢を分析しているのです。
それらの分析の結果をまとめて、いま国際情勢は戦争の方向に向っているか、それとも平和の方向に向っているかとか、社会主義陣営にとって有利な方向に向っているかそれとも不利な方向に向っているか、などと考える場合には、われわれは総合をやっているのです。

もっと簡単な場合を例にとりましょう。碁石を8個と5個並べておいて、そばに残りの碁石を積んでおき、幼稚園児ぐらいの子供に、「これを両方おなじ数にしてごらん」と言います。
8個の方から3個とっても、残りの碁石から3個とってそれを5個の方につけ加えても良い訳です。前の解決に達するには、子供は両方を比較しながら、8個の方を頭のなかで二組にわけて考え、5個と3個に分けた場合に、二組のうちの片方が、与えられている別の碁石の列と同じ数になることを見いだせば良い訳です。
これは分析による解決で、この分析ができれば、子供は8個の方から3個取るでしょう。

後の解決に達するには、5個の列に頭のなかで1個ずつつ付け加えて考えながら別の列と比較し、3個付け加えて考えた場合に、両方が同じ数になることを見いだせば良い訳です。
これは総合による解決で、この総合ができれば、子供は残りの碁石から3個とってこれを5個の列に付け加えるでしょう。
実際に何人もの子供にこのことをやらせてみると、ほとんどすべての子供が8個の方から3個取るそうです。つまり、総合するよりも分析する方が易しい、ということをしめしていると言えるでしょう。

もっと複雑な問題になると、総合を予想した分析がおこなわれます。
複雑に円や直線が入りくんだ図形についてあることを証明せよという数学の問題を解くような場合には、すでに学んで知っているいくつもの定理を頭のなかに思い浮かべて、どの定理が使えるかなと考えながら、与えられた図形を分析する訳です。
ある点からある直線に平行緯を引くとか、ある角の二等分線を引くなどという補助作図に思いつくのは、そのような補助作図をした場合には、これこれの定理が与えられた図形のこの部分に対して使える、という見通しをもった場合のことで、これは総合を予想した分析ができたということに他なりません。

2、悟性のはたらき、(2)演繹と帰納

悟性というのは、なによりもまず、いま述べたようなさまざまな場合に分析や総合をおこなうことのできる能力です。
―さらにまた、悟性は推理する能力でもあります。推理とは、すでにあることが分かっている場合に、それに基づいて(このすでに分かっていることを「前提」といいますが、この前提から)、まだ分かっていなかった新しい知識(これを「結論」といいます)を引きだすことです。

推理には、演繹と帰納との二種類があります。まず演繹について述べましょう。
例えば「すべての金属は電導体である」ということがすでに分かっているとします。
Mと仮に呼ばれている新しい合金が造られました。合金ですから「Mは金属である」ということが分かります。この「 」でくくつた二つの判断(これが前提です)から、「Mは電導体である」という結論を引きだすことができます。

Mは造られたばかりの合金で、Mの針金を使ってこれに電流が流れるかどうかという実験をまだ誰もやってみたことがなくても、さきに述べた二つの前提があれば、この結論を誤りなく引きだすことができるのです。
そしてこの例のように、「すべての金属」について、それが「電導体である」ということが分かっている、すなわち一般的な事柄についての知識が既にある場合に、Mと呼ばれる新しい合金と言うような特殊的なものについての知識を引き出す場合に、そういう形の推理を「演繹」と言うのです。

すべての国で資本主義的生産関係は必ずゆきづまり、崩壊し、社会主義的生産関係によってとって代わられる、ということが既に分かっていれば、このことを前提としてそこから、日本でも資本主義的生産関係必ずゆきづまり、崩壊し、社会主義的生産関係によってとって代わられる、と結論することができます。 これは演繹のもう一つの例 です。

だが、演繹の前提となっている一般的な知識、たとえば前の例でいえば「すべての金属は電導体である」ということは、どうして分かったのでしょうか。今日ならばそれは理科の教科書に書いてある訳ですが、それを最初に知った人たちはどうして知ったのでしょうか。
まず最初に行われたことは、銅、鉄、銀などの針金に電流を通じるという実験を次々にやって、「銅は電導体である」、「鉄は電導体である」等々の知識を蓄えてゆくことでした。

こうしてそれぞれの金属について、それらが電導体であることが確かめられたのちに始めて、そのような特殊的な知識をひとまとめにして、「すべての金属は電導体である」という一般的な知識がえられます。このように特殊的な知識から一般的な知識を引きだす場合に、そう言う形の推理を「帰納」と言います。

このように整理して述べると、演繹と帰納は、「一般から特殊へ」と「特殊から一般へ」というように正反対の方向をとるものだということだけが印象づけられますが、実際には人類の知識の発展過程でこの二つは結びついて働きます。

たとえば、5、6種類の金属について実験した結果、それらがいずれも電導体であることが分かったとすると、まだ全ての金属を調べつくした訳ではなくても、その段階で既に「大方、すべての金属は電導体であろう」という予想が生まれるでしょう。これは完全な帰納ではありませんが、一種の帰納であって「蓋然的帰納」と呼ばれるものです。
そうなると、たとえば第7番目、第8番目の金属について実験する場合には、これらも電導体であろうという予想的な結論をもちながら実験することになります。
この場合にはすでに前述のような「大方………である」という正確とは言えない前提にもとづいてではあるが、演繹がおこなわれているのです。

実験の結果が予想どおりであれば、その結果を加えて蓋然的帰納がおこなわれることにより、「大方………である」という知識の蓋然性(確からしさ)が増大します。
このようにして帰納と演繹とが互いに助けあいながらくり返して用いられることによって、人間の知識は次第に確実な一般的知識へと近づいて行く訳です。

 


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