人間の本質について

レーニンの『カール・マルクス』のなかに、人間の本質は社会諸関係の総和であるということが書かれていますが、これはどういうことですか。

確かに、レーニンは『カール・マ ルクス』のなかで、古い唯物論者は 「″人間の本質”を抽象的に理解して、これを(具体的=歴史的に特定の)”社会諸関係の総和”と理解せず、従って世界を”変革する”ことがかんじんであるのに、世界を”解釈する”だけにとどまった。すなわち”革命的・実践的活動の意義を理解しなかった」(国民文庫『マルクス=エンゲルス=マルクス主義』1−19n)と書いています。

ここでのべられている人間の本質が社会諸関係の総和だというのは、どういうことなのか考えていきましょう。

レーニンがここで引用しているのは、「フォイエルバッハについてのテーゼ」でマルクスが述べている次のことばです――「人間の本質は個々人に内在するどのような抽象物でもない。それは、その現実の姿においては、社会諸関係の総和である」(国民文庫『フォイエルバッハ論』80n、その他の引用もやはりこの「テーゼ」からのものです)。

かいつまんでいえば、このことばの意味は、およそ次のようなことになるでしょう――「人間には、生まれながらにして永遠普遍の人間性と言ったものが備わっているのではない。社会生活の中で具体的な人間につくられていくのだ」。

実際、そのとおりではないでしょうか。例えば、人間は直立二足歩行を特徴とする動物ですが、生まれたばかりの子馬がだれに教わることもなしに母馬のまわりを四つ足で歩きまわるのとは違って、生まれて直ぐに本能的に直立二足歩行をはじめる人間の赤ん坊など、どこにもいません。時間さえ掛ければほっておいても本能が働きだして直立二足歩行するようになる訳でもありません。社会的な「学習」によってはじめて、直立二足歩行も可能になるのです。

立って歩くということでさえそうなのですから、まして人間の「内面」についてはなおさらです。
人間の脳は、社会的に訓練されて始めて、人間の脳としての機能をいとなむことができます。人間の赤ん坊の脳は、社会から切り離されて育った場合には、決して人間らしい働きを示すようになることは出来ません。

生後ほどなく狼の群れに連れ去られ、そこで育った「狼少女」の実例がそれをしめしています。
彼女の脳は、立派に人間の脳としての素質を持っていたにもかかわらず、人間の社会によってではなく、狼の群れによって狼的に訓練されてしまい、その結果、狼的な意識と習性を身につけてしまったのでした。
これで分かるように、人間は生まれながらにして「人間性」といったものを備えている訳ではないのです。つまり、人間は生まれながらにして人間であるのでは無く、それだけでは未だ可能的に人間であるにすぎず、社会との関係の中で始めて、現実に人間となっていくのです。

ですから、人間は他の動物とは違って、たんに生物的・生理的な存在であるのではなく、特に社会的な存在だと言うところにその本質を持つものだ、と言うことが出来ます。
そもそもこうした人間の特質そのものが、道具をもちいた共同労働によって生きると言う道に人間の先祖が入り込む中で、次第に歴史的に形成されて来たものでした。
道具は人間の身体器官そのものではなく、従って遺伝子によって、親から伝えられた生理的な本能によって作ったり使ったりすることの出来ないものです。道具の製作・使用は社会的な学習によってのみ習得されます。
だからこそまた、それは社会的、歴史的にどこまででも進歩させていくことが出来、ここに人間が他の動物と違って、限りない進歩を実現させていくことが出来る源があるのです。

「人間性」と言うものは、このようにして歴史的、社会的に形成されてきたものであり、作り出されていくものであって、歴史や社会から切り離されたどのような抽象物でもないのです。
だからこそ又、それは具体的な社会との関わりの中でのみ、個々人にとって現実のものとなっていくのです。

ところで、個々人が現実の人間として成長していく過程で関わってくる社会とは、レーニンが注意しているように、常に「具体的=歴史的に特定の」社会です。
ですから、どんな社会とのどのような関わりの中におかれているのかと言うことによって、生理的な素質としては同じ人間でも、その「内面」は大きく変わってくる、と言うことになります。
縄文式土器の時代の人間の脳が、生理的な素質・構造の点では殆ど変わりないのに、その脳の営みとしての意識の内容はひどく違ってくる、と言うように。

とすれば、「人間性」を発展させ、その健やかな成長を実現する為には、何よりも先ずそれにふさわしい社会関係を作り出すことが必要です。人間の能動的な力がそこに発揮されなければならないのです。ところ


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