マルクス主義の力は、それが科学的な世界観にかたく立脚し、人間の限りない進歩の方向をしっかりと見とおしながら、与えられた諸条件のなかで、その方向にむかって現実の前進を実現する為にあらゆる努力を惜しまない、ということにあります。
こうした意味での真のヒューマニズムの精神、それがマルクス主義の基本的な特徴です。
しかし、まさにそれだからこそ、あらゆる進歩の敵、ヒューマニズムの敵は、こぞってマルクス主義に攻撃を集中します。ほかでもない、その人間観、道徳観にむけて誹誘、中傷の洪水をかけてくるのです。
「共産主義の非人間性」に「対決」する(自民党「青年憲章」1966年)だとか、「共産主義思想の基本的なあやまり」は「人間の生命にたいして畏敬の念をもたず、人間性を尊重する気持がいたって弱いこと」(国際勝共連合『共産主義は間違いだ』)だとかいったぐあいです。
これほど恥知らずな中傷はありません。しかし、それであるだけにマルクス主義の人間観、道徳観の真の姿をくりかえし明らかにしていくことは、人間の真の進歩とヒューマニズムの実現のために欠かすことができません。
いったい人間の人間たるゆえんはどこにあるのか、人間を他の動物と区別するところの人間の本質、それはなにか―――古来、さまざまな思想、哲学がこの問題にとりくみ、さまざまな答えを提出してきました。
「人間は神によって神の似姿として創造されたものだ」という答えもありました。
これは現に「人間の人格は……そのなかには仏性を宿す主体」であるといういいかた(自民党基本問題調査会報告、1960年)となってあらわれ、「われわれには精神的な生命がある。このような生命の根源、すなわら聖なるものにたいする畏敬の念が真の宗教的情操であり、人間の尊厳と愛もそれにもとづき、深い感謝の念もそこからわき、真の幸福もそれにもとづく」(中央教育審議会「期待される人間像」1966年)というふうにも言われています。
なにか有り難そうにひびきます。しかし、こうしたとらえかたによって「人間の尊厳」をただしく理解することができるでしょうか。
マルクス、エンゲルスはまったくちがった答えかたをしています。つぎの文章を見てださい。
「ひとは人間を意識によって、宗教によって、そのほか好きなものによって動物から区別することができる。(しかし)人間自身は自分たちの生活手段を生産し始めることによって動物とは違ったものになりはじめるのである」(『ドイツ・イデオロギー』)。
これはマルクス、エンゲルスが共同でその新しい世界観をスケッチした最初の著作の一節です。マルクス主義の人間観の基本が、ここに鮮やかに浮きぼりされています。
「聖なるものにたいする畏敬の念」すなわち「宗教的情操を持っている点が人間と動物との根本的なちがいだとか、意識、とくに考えるカとしての理性をもっている点が人間と動物との根本的なちがいだとか、いろいろにいう人がいる。
そのようにいろいろということはその人の好き勝手だが、人間自身はどうかといえば、人間でないものから人間になってきたのだ。
どのようにしてそうなってきたのか、なにが動物の一種であった人間の先祖を人間にしたのか、そこをとらえなければ人間の本質は理解しようがない。―――これが、マルクス、エンゲルスの問題のたてかたです。
そして、これこそが実に科学的な問題のたてかたであるのです。
人間と動物とを見くらべて、ここがちがう、いやあそこがちがうという具合に言い立てるだけであるかぎり、その人の関心のおきかた次第でさまざまな色合いのちがった答えをひきだしてくることも自由にできましょう。
「衣服を着るのが人間の特徴だ」とか「遊びを知っているのが人間の持緻だ」とかいうぐあいに。事実、「衣服哲学」とか「遊びの哲学」とかいったものが説かれたこともあるのです。
こうした問題のたてかたから、科学的に意味のある答えがひきだせることは期待できません。
どんな答えをひきだそうとも、要するにそれは主観の相違、ということで終わってしまいます。マルクス、エンゲルスのこの指摘は、こうした問題のたてかた自身にたいするコペルニクス的転換ともいうべきものをふくんでいるのです。
では、何が人間の先祖を人間にしたのか―――それは「生活手段の生産」すなわち労働によって生きる道に踏み入ったと言うことだ、とマルクス、エンゲルスは答えています。
後ににエンゲルスは「猿が人間になるにあたっての労働の役割」という論文のなかでさらに詳しくこの考えを展開していますが、これがどんなに天才的な洞察であったかは、今日あらそいがたい証拠によって十分に実証されているところです。
今日の人類のもつている大きな脳とそのはたらきとしてのすぐれた知能も、労働によって生きる生活の長い積み重ねの産物にほかならないのです。
人間以外の動物にあっては、与えられた環境にあわせて自身の身体構造、生理、生態を変化させ、それによってその生存を保ちます。
それゆえに動物はどこまでもその環境に従属しているのであって、環境を支配するということはできません。
「鳥のように自由に」といいますが、じつは鳥はけっして自由ではないのであって、ヒバリは麦畑、カモメは海辺というように、見えないくさりによって一定の環境につながれているのです。ヒバリの姿を海辺で見ることはできず、カモメを麦畑のうえで見ることはできません。
これにたいして、人間の先祖が労働によって生きる道にすすんだということは、環境順応ではなく環境変革を本質とする方向にすすんだということです。
まさにそのことによって、人間は動物と本質的にことなるものになってきたのであり、その自由を一歩一歩と拡大し、その度合いにおうじて人間らしくなってきたのです。そこに生物一般の進化と区別される人間の進歩があります。
これはなにを物語っているでしょうか。
人間とはなにか出来上がったもの、他によって与えられたものではないと言うことを物語っています。
「人間の尊厳」というものがなにか神秘な力によって「人間性」といったものを与えられていることにもとづくものではない、ということを物語っています。
反対に人間性とは、環境変革の活動をつうじて人間自身の力によって歴史的につくりあげられてきたものであり、環境変革の努力をつうじて日々にさらにゆたかにされ、かぎりなく発展させられていくべきものです。
このように、自分自身の力によって自分をかぎりなく発展させていくというところにこそ、真の人間の尊厳があるのだといわなければなりません。
このように見てくると、「聖なるものにたいする畏敬の念」によってこそ人間の尊厳が保障されるというような言い方が、事がらをどんなに逆立ちさせるものであるかもはっきりしてきます。
「聖なるものにたいする畏敬の念」とは「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という具合に、人間の理性と力の及ばない神秘的なものの前にひざまずくということです。
こうした感情は、自然界の諸力に対して人間がまだ著しく無力であった原始時代の意識に根をもつものですが、しかし自然諸力を「聖なるもの」と見なし、それにたいする「畏敬の念」にとじこもつているかぎり「人間の尊厳」は実現されず、人間の進歩は有り得ませんでした。
たゆまね努力によってそれにたたかいをいどみ、「何事」がそこにあるのかを見定め、その知識を活用してそれを人間の支配のもとにおくことによってこそ、人間の進歩、人間の尊厳は実現されてきたのです。
日照りや洪水、さまざまな病気、それらにたいして無力なままであるところに人間の尊厳など有り得ましょうか。
いや、それは人間の力への過信だ、うぬぼれだ、と言う人があります。そのような過信、うぬぼれが今日の深刻な環境破壊の問題をひきおこしたのではないか。
科学、技術は確かに人間が今日の状態にまで発展してくるうえでの最大の武器だったかもしれないが、その武器がいまや人類のいのちとりになりつつあるのではないか。
科学への過信を反省して、「宗教的情操」をとりもどすことなしには今後の人間の幸福は有り得ないのではないか、と。
果たしてそうでしょうか。今日の深刻な環境破壊の原因は、科学、技術が発達しすざたためでしょうか。
そうではありません。環境破壊をもたらすように使用されている科学、技術は、この破壊をくいとめ、いっそう望ましいものに環境を作り変えて行くのにも使用しうる筈です。
それがそのように使用されないのは、社会的な力がそこには働いているからに他なりません。
すなわち、科学、技術がもつぱら大資本の利潤追求のためにのみ用いられ、それ以外をかえりみない、ということです。ここに事態の本質があります。
ところが、まさにそこのところを棚上げにして、「聖なるものにたいする畏敬の念」が説かれるのです。
これはなにを意味するでしょうか。それはちょうど原始人が自分たちの手のおよばない自然諸力のまえにひざまずいたように、大資本の社会的な力、それを擁護し支える政治的な力の素性を隠してこれを「聖なるもの」とし、そのまえに人をひざまずかせることを意味しないでしょうか。
「何事」がそこにあるのかに目をふさがせるこうした「理論」の虜になってはなりません。
それは「人間の尊厳」を台なしにするものです。人間の理性は環境変革の活動のなかから、その産物として形成されてきたものであり、環境変革の武器としてこそ役立てられなければなりません。
自然についても社会についても「何事」がそこにあるのかをしっかりと見定め、その認識にもとづいてそれに対する人間の支配力をたかめ、それによる束縛から自分を解放していくこと、そこに人間の人間らしさがしめされるのです
。
ヒューマニズムとはこのような立場にしっかりとたつということに他なりません。
このようなヒューマニズムに貫かれたもの、それこそマルクス主義の社会科学であり、科学的社会主義の理論と実践にほかならないのです。
いま私たちのまわりでは、どのようなものの見かた、生き方が広められているでしょうか。 奥村チヨさんのデビュー曲「恋の奴隷」を思いだしてみましょう。
「あなたのひざに絡みつく小犬のように………悪い時はどうぞぶってね」 「右と言われりや右向いて、とてもしあわせ」 「好きなように私をかえて」とそれは歌っていました。
「あなた好みの、あなた好みの女になりたい」というのです。
これは人間の人 間らしい生きかたといえるでしょうか。まさしくその正反対のもの―――非人間的な、「小犬」的な、奴隷的な生きかたです。
たかが流行歌じゃないか、と言われるかも知れません。しかし、こうした流行歌が現れて来るということには、必ずその背景が有るのです。つぎの文章を読んでください
「われわれはお互いに幸福な人間でありたい。幸福な人間となるためには、経済的・政治的な条件がととのえられる必要があることはもとよりである。
しかし、それよりもいっそう大切なのは心構えであり、心の持ち方で有る。そして、それは感謝と畏敬の念である。不平不満の種はいろいろと有ろう。しかし、たえず不平不満だけを感じる人ほど不幸な人はない。
それに反し、小さな好意や親切にも感謝できる人は幸福である。それによって社会は明るくなり、健全な進歩が期待される。憎しみと恨みによる変革は逆作用を伴う」(「期待される人間像」中間草案、1965年)。
ここで強調されていることを一言に煮詰めれば「あなた好みの人間になれ」ということではないでしょうか。
こうした奴隷道徳が国民教育の基本理念として押し付けられようとしているのです。
これが私たちに押し付けられている「環境」であるとするならば、それにたいして変革のたたかいを挑んでいくところにのみ、真の人間らしい生きかたが有り得るのだと言わなければなりません。
「労働者は、支配階級にたいして怒りを感じているあいだだけ人間なのである」とエンゲルスは言っています。
「労働者が、自分たちを縛り付けている首かせをしんぼう強く我慢し、その首かせを自分でこわそうとはせずに、ひたすら首かせをされたままで生活を愉快にしようとし始めると、労働者はたちまち動物になるのである」『イギリスにおける労働者階級の状態』と。
これは当時、イギリスの労働者がおかれていた非人間的な状態をつぶさに観察するなかから発せられた青年エンゲルスの叫びです。
このようにいうと、それ、そのように「怒り」とか憎しみとかをやたらに強調するところ、そこにマルクス主義の本性がでている、というふうに言う人があります。
マルクス主義は「憎しみの哲学」を説くものだ。「憎しみのるつぼに赤く焼くるくろがねの剣をうち鍛えよ」と古い労働歌にもあるではないか。なんでこれがヒューマニズムなものか。憎しみではなしに愛、それこそヒューマニズムの基本精神でなければならないではないか、というのです。
しかし「愛」といい「憎しみ」といい、それは抽象的なものではありません。具体的ななにかにたいする愛であり、具体的ななにかにたいする憎しみです。
では、愛こそヒューマニズムの基本精神だという場合の「愛」とはなにに対する愛でしょうか。
もちろんそれは人間的なものにたいする愛だ、と答えられるでしょう。そのとおりです。まさか非人問的なものへの愛、人間性を押しつぶすものへの愛では有り得ないでしょう。
とすれば、どういうことになるでしょうか。
人間的なものへの愛が強ければ強いほど、それは非人間もの、人間性を押しつぶすものへの憎しみを伴うのではないでしょうか。それ以外では有り得ない筈です。
愛の反対は憎しみではなく無関心ではないでしょうか。非人間的なもの、人間性を押しつぶすものに対して無関心であるということは、それだけ人間的なものへの愛が乏しいということを物語る筈です。
マルクス主義は、それが人間的なものへの限りない愛に根ざしておればこそ、「聖なるもの」というベールをまとった非人問的なものに対して激しく闘いを挑み、容赦なくそのベールを引き剥がすのです。
事実「憎しみの哲学」としてマルクス主義を攻撃するもの自身が、激しい憎しみをマルクス主義に対して向けているではありませんか。
マルクス主義にたいするかれらの憎しみの激しさは、それがかれらなりの強い愛―――非人間的なものへの愛―――に根ざしているということを物語っていると言わなければなりません。
こうした非人問的なものが支配している現実のなかにあっては、それへの断固としたたたかいとしてのみ、マルクス主義のヒューマニズムはあらわれます。
真のヒューマニズムはそれ以外では有り得ないのです。
社会や政治のゆがみに対してたたかうマルクス主義者の情熱には敬意を表するが、しかしマルクス主義者はあまりにもすべてを社会や政治の問題に還元してしまいすぎやしないか、という人がいます。
社会や政治のゆがみも結局は人間の心の有り方からくるのであって、とすれば社会変革のまえに人間変革が強調されなければなるまい。
マルクス主義は人間の問題をあまりに割り切って考えすぎており、その意味で浅薄なところが有りはしないか、と。
ここで先ず言わなければならないことは、人間とは割り切れないものだという風に割り切ることが人間についての「深い理解」だということにはけっしてならない、ということです。
マルクス主義者は、今日の科学が人間の問題についてなにもかもをすでに解明しつくしているなどとは考えません。
しかし同時に、人間は不可解なものだなどと理解したりもしません。
すべての存在と同様に人間は理解可能であり、そのポイントをなすものこそ、社会的な存在として人間をとらえることだ、と考えるのです。
労働によって生きるということこそ、人間を他の動物から区別する根本のものだということは、人間が社会的存在だということをふくんでいます。
環境順応を本質とする動物の生き方を保障しているものは、遺伝によって生理的に伝えられ、生まれながらにして働く能力としての本能です。
しかし、労働によって生きるということを本質とする人間に特有の能力としての理性は、本能のようにひとりでに働きだすことのできるものではありません。
それは脳の営む働きですけれども生後の学習によってのみはたらきだすことのできるものです。すなわち、それはたんに生理的な力ではなく、とくに社会的な力なのです。
このことは、狼少女などの例を考えてみればすぐにわかります。生まれてからすぐ、狼の群れのなかで育てられ、成長してからのち人間の社会につれもどされたのですが、脳になんら先天的な欠陥が有った訳でもないのに、もう彼女の脳は人間の脳としての機能を営むことができないものになってしまっていたのです。
人間の脳は生理的には、数万年まえと今日とで殆ど変わりはないといいます。にもかかわらず数万年まえの人間の考えと今日の人間の考えとは大きく違います。
その違いはどこからくるのかといえば、ひとえに社会のちがい、そこで施される社会的訓練の違いからくるのです。
つまり、人間の脳の生理的構造をかりにコンピューターにおけるハードウェアにたとえれば、社会によってほどこされる訓練はソフトウェアにあたるものともいえます。
人間の思想は、この社会的なプログラミングによって根本的に左右されます。人間が本質的に社会的な存在だという所以です。
ですから、社会とは人間にとって、たんに外的なものではないのです。それは外的であると同時に内的なものです。
マルクス主義者が社会を問題にするのはまさにこのような意味においてであって、決して外的なものだけを一面的に強調しているのではありません。
私たちは社会のなかに生きていると同時に、社会が私たちのなかに入り込み、他ならぬ私たちを作っているのであって、そこで私たち自身をかえるために努力するということは社会をかえるために努力すると言うことと言うことと別のことではないのです。理論と実践の統一と言うことの一つの意味はここに横たわっています。
非人間的な社会による頭のプログラミングの作り替えが助けられるのです。
これをとらえることなしに、社会革命が先か人間革命が先かというのは、それこそ人間についての「浅薄な理解」なのではないでしょうか。
では、マルクス主義者は道徳の問題をどうとらえるのでしょうか。
しばしば道徳とは、なにかある絶対的な基準があって、そこからわりだされてくるものという風に考えられています。例の「聖なるもの」だとか、できあがったものとしての理想的な人間とかいう観念がそのモデルとしておしたてられるのです。
しかしマルクス主義はどのような「聖なるもの」をも認めませんし、できあがったものとしての理想的な人間などというものを仮定したりもしません。人間を自分の力で限りなく社会的に発展させていくものとしてとらえます。
ですから、マルクス主義者にとっての道徳とは、この人間の限りない社会的進歩に貢献するような生き方以外のなにものをも意味しません。
そして人間の社会的進歩に反し、それを妨げるような一切の生き方を不道徳として退けます。
マルクス主義はどのような禁欲主義でもありません。それはあらゆる面にわたっての人間のゆたかさを実現していくことをめざすものです。
ただそれが現在、社会的な力によってゆがめられているとき、なによりもまずこの人間らしさをゆがめる力にたいしてたたかっていくということを中心にすえるのです。それより他では有り得ません。
根本において人間らしさがゆがめられているとき、それとのたたかいをぬきにしてなにかを求めようとしても、それ自身がゆがんでしまうことをさけられないのですから。
忘れてならないのは、今日進歩の敵によって、さきに見たように「右といわれりや右むいて、とても幸せ」といった奴隷道徳が押し付けられようとしていることです。
「いいじゃないの、幸せならば」というわけにはいきません。幸せとは、たんに主観的なものではないのです。
「幸せとは、しわよせのこと。一部の人の幸せのために、他の大多数の人に不幸をしわよせすること」と、ある皮肉な本にでていました。これは今日の社会的現実にたいする痛烈な風刺です。
不幸をしわよせされながら、それを幸せと感じるように自分自身をならしていく!そこにどのような人間的幸福が実現されるでしょうか。
ですから、娘の問いにたいして「人間的なことで私に緑のないものはない」ということばを自分のモットーとして答えたマルクスは、「あなたの幸福は」という問いに対して「たたかうこと」と答え、 「あなたの不幸は」という問いにたいして「屈従」と答えたのでした(国民文庫『マルクス回想』)。
真のヒューマニズムのモラルは、このようでなければなりません。
「聖なるものへの畏敬の念」を説きたてることは、まさしく反道徳、反ヒューマニズムもいいところなのです。
とすれば、こうした非人問的なものの実体と、人間の社会的進歩、人間らしい社会実現の方向と道すじをしっかりと見定めることもまた、私たちの道徳の不可欠な一部だということになります。
「嘘でもいいから」という歌があります。いろんな流行歌にこのセリフがでてきます。これこそ、あの「あなた好み」の奴隷的な生きかたと表裏一体をなすものです。
学習は人間らしく生きようとするものの欠かせない道徳の問題として自覚されなければなりません。
道徳についてのマルクス主義者のこのようなとらえかたは、道徳についての従来のあらゆる見かたと根本的にことなると同時に、それらのなかの価値有る全ての要素を積極的にうけつぐものです。
たとえば、社会が階級に分裂して搾取と抑圧が出現してこのかた、搾取と抑圧のない社会をめざす思想と運動はとだえることなく存在して、人間の人間らしい生きかたの実現をめざすヒューマニズムの伝統の一面をかたちづくってきました。
しかし、資本主義社会以前には、そのような社会を実現する現実の条件は存在しませんでした。そこで、そのような社会の実現を求める思想と運動は、どうしても幻想的なものによりどころを求めざるをえず、「聖なるもの」の力を呼び求めることとなり、結局は観念の世界のなかでの幻想的な解放にあまんじる、というところに落ち着き勝ちでした。
こうして、その主観的な願望とはうらはらに、非人間的なものの支配を手だすけするということにもなったのです。
宗教的な幻想を武器としながらも、あくまで現実的な解放をと果敢にたたかった場合もなくはありませんでしたが、そうした場合には、物質的な豊かさとそれへの欲望を敵とみなし、粗野な平等主義と陰気な禁欲主義を説くという、その意味ではこれまた非人問的なせまさにおちいりがちでした。
反対に、人間の欲望を肯定し、社会の物質的なゆたかさの前進をめざそうとした思想の場合には、それと同時に人間の不平等、人による人の搾取、抑圧をも人間の「自然」として肯定し、暴力や詐欺、奸計、獣的な欲望の発揮等々を人間の力(=徳)の現れとして肯定するということになるか、新しい搾取と抑圧の形態を準備しつつそれを「自由・平等・博愛」という普遍的、抽象的なスローガンで意識的、無意識におおうということになるか、というかたちをとりました。
これはこれで、やはりそれなりにヒューマニズムの伝統の一つの側面をかたちづくっています。
このようなことになってきたのは、人間が自然諸力になかば動物的に威圧されていた原始状態を脱却して以来、人間社会の進歩は階級に分裂した社会の諸形態をつうじてしか実現されえなかったからです。
そうした状態のもとでは、どのような時代、どのような社会のどのような階級のどのような志向もが、それぞれなんらかの程度にゆがみをおびたもの、一面的なものとならざるをえず、しかもそれを自覚にのぼせることができなかったのでした。だからこそ、反対にそれぞれを普遍化し絶対化して、これが人間永遠の道徳だ、と主張することとなったのです。
しかし、マルクス主義の社会科学は、資本主義とともに社会のこうした階級分裂が、したがってまた、こうした階級分裂のなかでのみ社会の進歩が実現されざるをえないという状態が、終わりをつげ、搾取と抑圧のない社会に必然的に転化していかざるをえない現実の条件が成熟してきていることを解明しています。
マルクス主義の理論と実践、マルクス主義者がそこで自分に課する道徳とは、人類史のこのような歴史的な転換の時期における人類の自覚の表現以外のなにものでもないのです。
それは、自分自身のこのような歴史的特徴を深く自覚しているがゆえに、自分のせまい経験のわくを絶対化して、そこへ人類の未来のありかたを押し込もうなどとは考えません。その意味で、自分の相対性を深く自覚しています。
人間は人間自身を無限に進歩させていく存在なのです。どうして現在を持ってその未来を狭く限って良いでしょうか。
しかし、同時にその未来が基本的にどのようなものであるかについて、それが人類史のこれまでの段階とは決定的に区別されたもの、すなわち万人の自由な発展が個々人の自由な発展の条件であり、人間の進歩発展が人間自身の自己目的となるような、そういう性質の社会であるということもまた、はっきりと自覚しています。
そういう社会への歴史的転換を自覚的に実現していく今日の私たちの生きかた、道徳のなかからこそ、未来の人間の生きかた、道徳は花ひらいていくでしょう。
そして、そういう今日の私たちの生きかた、道徳のなかにこそ、過去の人間のあらゆる生きかた、道徳のなかの積極的な要素は総合され、結実しているといえるでしょう。
これが、マルクス主義者の自覚です。
以上、マルクス主義の人間観、道徳観についてスケッチしてきました。
ここからいえることは、マルクス主義はかたよった思想だ、等と言う言い方がどんなに的はずれかということです。
「かたより」ということについていうならば、搾取と抑圧を肯定するという思想にたいしてはもちろん断固としてかたよっています。それを許さないという立場へです。
しかし、そのような意味で「かたよらない」ということに一体どのような意味があるでしょうか。
科学と非科学、あるいは反科学との対立において、そのどちらにも「かたよらない」ということ―――それは事実上、非科学、反科学の側へかたよることです。
民主主義と反民主主義との対立においてその「中道」をとるということは、事実上反民主主義のがわにくみすることです。
人間的な生きかたと非人問的な生きかたとの対立において、断固として人間的な生きかたのがわに「かたよらない」生きかた―――それは非人問的な生きかたでなくてなんでしょうか。
そのような意味において、進歩の敵、ヒューマニズムの敵がマルクス主義をさして「かたよっている」というならば、マルクス主義者はためらいもなく「そうだ」と答えます。
「そうだ、そしてそれこそが人間としてのまっすぐな道なのだ」と。それが「左」のいいぐさだ、というものがあれば、私たちはためらいもなく答えましょう―――「そうだ、右といわれりや右むいて………というあの”右”からすれば”左”なのだ」と。
くりかえしいいます。マルクス主義者の人間観と道徳観は人間が自分を人間として成長させてきた道、そして真に人間の人間らしい生きかたへのかぎりない発展の道にしっかりと立ち、その発展の方向にまっすぐに向かって打ち立てられるのです。
そのような過去と未来とを見わたすことのできる地点にようやく人類は到達したのです。
この歴史的な時代を自覚的に生きる―――それは何と言う人間的なよろこびでしょうか。そして、それを中傷し悪罵するもののなんという非人問的なみにくさでしょうか。
いまこそ、人間らしく生きようとするすべての人がかたく手をたずさえてすすむべきとき、すすむことができるときです。
その団結の輪が広がっていくにつれ、「かたよっている」のが誰であるか、現実的にも明瞭となってくるのです。
そのような団結をつくりあげていきましょう。団結、それは私たちのモラルです。