史的唯物論スケッチ-2(原始共産制社会)

■ 原始共産制-1

シリーズ最初で、「史的唯物論の眼目は、歴史を法則的に理解すること」と書きました。
英雄や王侯の主観的意思の裏に、歴史を動かす真の推進力として、生産力と生産関係と言う客観的な要因があることを述べてきました。
実際に、エジプトでも中国でも日本でも、歴史は基本的に奴隷制、封建制、資本主義と言う共通の経過を辿っていることを見る時、単に一部の人の主観だけで歴史が作られたのでは無いことが理解できます。

これから実際に「物質的生産」と言うことに着目して、人間の歴史を見てゆきましょう。改めて言っておきますが、決して私はこの分野の専門家ではありません。これが「正しい理論」だなどと言う積もりは毛頭有りませんし、不正確な記述も有るでしょう。
あくまでも私の個人的な私見としてご理解下さい。

■ 原始共産制の特質とその理由

原始時代、物質的生産の特質はなんと言っても、その生産力の低さです。そしてそのことによる生産関係は「原始共産制」でした。つまり全員で働き、みなで平等に分ける、搾取の無い、或いは搾取の成り立たない社会だったのです。
その点についてこれから述べて行きます。

原始時代の人類は、男は狩り、女は木の根や昆虫の採取などで命を繋いできました。
牙も鋭い爪も無い人類が、やっと二足歩行に踏み出した当時、おそらく狩りの成功度は極めて低いものだったでしょう
生産力の低さとともに、狩りは偶然に大きく左右されます。そして、生産物つまり獲物を貯蔵しておくと言うことも出来ません。原始時代の人類は、常に餓死と隣りあわせだったでしょう。

こう言う低い生産力の時代、どう言う社会制度が考えられるでしょうか。
みんなが精一杯働き、それでも常に生きるか死ぬかと言う程度の生産力のとき、搾取は考えられません。搾取される側が死んでしまい、社会が維持出来なくなるのです。
偶然に左右され、生産物の貯蔵が出来ないということも、搾取を不可能にします。
極端に低い生産力の時代には、全員で必死に働き、みんなで平等に分配する、そう言う制度、つまり原始共産制社会以外は成り立たないのです。搾取するだけの余剰生産がもともと無いのです。

この時代、例えば狩場を争ったり、或いは女を争ったりで、部族間の争いも有ったかも知れません。この場合でも勝った側が負けた側の人間を捕まえて、奴隷にすると言うことは考えられません。
その人を働かせても、その人が食う分以上には生産力の余裕が無く、搾取する余地が無いのです。
従って勝った側は、相手を全員殺すか、逃がすか、或いは対等の立場で自分達の成員に加えるかだったでしょう。場合によっては食ってしまったかも知れません。

原始共産制社会は、人類の歴史の大部分を占めました。
今、我々が目指す社会主義、共産主義の豊かさとは逆に、極端な貧困に照応した共産制ですが、5000年前位から始まる人類の階級社会の前に、長い共産制の社会が存在したことは記憶に留めておいて良いでしょう。


※ 番外編-人類の歴史、道具、言葉など

■人類の歴史論争

エンゲルスは「猿が人間になるについての労働の役割」の中で、「数十万年前に、…(略)…特別高度に進化した類人猿がすんでいた」と書いています。当時、人類の歴史としては、数十万年と考えられていたのでしょう。
逆に最近までの古生物学では、化石の研究から1000万年〜2000万年前に分岐した、とされた時期も有りました。

しかし近年の新しい分子生物学の所見によれば、ヒトは約500万年前に、チンパンジーとの共通の祖先から枝分かれしたとの説が出され、従来の化石に根拠を求める古生物学との論争の結果、一時この500万年前との説が定着した時期が有りました。

しかし又その後、近年相次ぐ人類化石の発掘によって、「人類誕生」の時期がさらに遡って考えられるようになっています。
2002年の7月、中央アフリカのチャドでの、600-700万年前と推定される猿人、トゥーマイの化石が発見され、現在のところこれが最古の人類と見るのが妥当のようです。
チンパンジーがそうであるように、ヒトも群れ(社会)を形成していました。
その証拠は化石や遺跡でも明らかですし、例えば男性の睾丸の大きさなどからも、ある程度分かるんですよ。


■ 道具と人間-1

原始共産制の経済的特質は、なんと言っても生産力の低さです。
しかし、その中でも徐々に生産(獲物の量など)は伸びて行きます。その一番の鍵は、道具の発達です。
特別に足が速い訳でもない人類にとって、例えば弓の発明などは画期的なことだったでしょうね。

ここで「道具と人間」と言うことについて、少し立ち入って考えてみることにします。若干横道ですが史的唯物論と関係ないことも有りません。

700万年前、元は同じ動物だったチンパンジーとヒトが、片方は今でも依然として野生のままで自然に依存し、片方は(良い、悪いは別として)文化を形成し、自然を作り変え、自然環境の全く異なる地球全域にその活動拠点を広げ、今や月にまで足跡を残すまでになった、その差を生み出す要因はなんだったのか、と言うことです。

結論から言うと、「道具を作り、それを使う」こと。及び「言葉」です。
どちらも集団での労働の中で、その必要から生まれ発達したものです。

言葉については又の機会として、「猿が人間になるついての道具の役割」を考えたいと思います。大きく言って2つの意味が有ります。

1、道具を作り、使うことで、脳の発達を促した。

最近の発見として、最も古い人類の化石は、上記のように「トゥーマイ」です。この時代にこの我々の祖先が、道具を使っていたかどうか、今のところ分りません。

長く人類の最も古い祖先と言われていた「アウストラロピテクス」の時代(約400万年前位)、この「人」達が既に道具を使っていたことが知られています。彼らの餌になったと思われる動物の骨が一緒に出土されるのですが、その中に、尖った石か何かで殴られた、と思われる痕跡が有るからです。
只この場合、彼らは石器を作って使ったのでなく、近くに有った、尖って手ごろな石を見つけ道具としたのでしょう。

しかしそう言う都合のいい形と硬さをもった石は、そうそう沢山見つかる訳では無いので、やがては、石を割ったり欠かしたりして都合の良い形に変える必要が出てきます。
つまりは、必要に迫られて道具を作ることとなったのでしょう。

特に道具の製作などで知られる祖先人類は、240万年前ほどに出現した、「器用なヒト」の意であるホモ・ハビリス猿人です。
彼らの骨化石が発見される地層から、多くの石器が出土しています。

例え幼稚な石器であっても、道具を作るということは、それを使うときのことを予想して、その目的に適うように目の前の材料を加工する、と言うことを意味します。
目先に餌が飛び出してきたのを、反射的に捕まえると言った、目先の現象を「感覚」するだけでなく、将来使うであろう時のことが予想出来なくてはなりません。
この予想は、過去に他の道具を使ったときの経験が記憶されていて、これが将来の目的へと投射されることで生まれるものです。

石器にも当然幼稚な段階から、それなりに洗練された段階への歴史的な移行が有ります。
ルロワ=グーランという人は、先史時代のことは石器の刃先を調べると良く分かる、と言っています。つまり、同じ石器の破片1kgで比較した場合、刃先部分の長さが、初期の礫石器(300万年前)では10cmであったのに対し、5万年前(ネアンデルタール人)では2m、2万年前(クロマニヨン人)では20mと言う比率で、鋭利化しているそうです。
このように鋭利な刃先を得る為に、例えば「ルヴァロワ技法」と呼ばれる加工法では、10回程順序正しく正確に石に打撃を加えて行く必要が有ります。
つまり後先考えずに行う、出まかせ作業ではなく、周到な計画を伴う、抽象的な思考能力抜きには出来ない行為です。人間は道具を作り、発展させることを通してこの抽象的思考を発展させてきたのです。

同時に、石を割って石器を作ると言うことは、目の前に有る「材料」としての石が、「硬い」と言う、既に存在している性質を認識する能力だけでなく、「尖った形」と言う、未だそこに存在していない性質までも認識する能力が必要です。
目の前の、今現在、直接的に感覚出来ることを脳に反映するだけでなく、将来の予想される出来事、目の前に未だ存在していない要素までも反映する能力も、道具を作る中で獲得してきた訳です。
さらに、道具を作り使うと言うことは、手先の器用を促します。それは又、おそらくその働きを司っている中枢神経・脳の発達を促すことになったでしょうね。

道具を作り、使うことを通じて、幾世代もの時を経て次第に人間の意識が、つまりは脳が鍛えられて来たのでしょう。化石から分かる、アウストラロピテクスの脳容量が、他の猿と殆ど変わらないことからも、ヒトは最初から頭が良かった訳では無い、と言うことが分かると思います。

道具は人間が作るものですが、同時に道具がヒトをつくったとも言えます。

ヒトが道具を使う、或いは作ることが出来た要因は、直立二足歩行です。それによって手(前肢)に、歩行以外の役割を持たせることが出来たからです。
逆に言えば、歩行以外の役割を余儀無くされた環境におかれた為に、二足歩行に移行せざるを得なかったとも言えます。
地殻変動による気候の変動で、密林がサバンナ状態になり、樹上生活から地上生活に移行したのがその原因だとか、進化の過程でヒトは、水中生活、海辺の生活をした時期があって、人間の無毛性などと並んで、直立二足歩行もその時獲得した。等の説が有ります。

2 道具を使って、自然に働きかける道を選んだことによる意味

道具は身体の各部分の延長・代用です。
例えば、石斧は拳骨の延長、着物は毛皮の代用、自転車や飛行機は云わば足や鳥の羽根の延長。そしてコンピュータは人間の脳の延長だと言って良いでしょう。

人間はチータの足も、ライオンの爪も牙も、空を飛ぶ羽根も有りません。普通ならとっくの昔に、猛獣に食い殺されて絶滅していても不思議では有りませんでした。
人間が、道具を作り・使う、と言う道を歩み出したことは、生き残りと、その後の人間社会が飛躍的に発達する上で、決定的なことでした。

身体器官と比較しての、この道具の特質は何でしょうか。
それは、遺伝子に直接依存していないと言うことです。知識や技術の発達に伴い、無限にしかも急速に発達させることが出来、簡単に取り替えることが出来ることです。
恐竜から進化したとされる始祖鳥から、現代の鳥に至るまで、1億年以上たっている訳ですが、ライト兄弟の初飛行から未だ100年位しかたっていない航空機の発達は、今や月に人間を送り、太陽系の最外部を覗うまでになっています。

遺伝子DNAに依存しない、道具による生活の道に踏み出したと言うことは、本能から学習・訓練の道に切り替えたと言うことでも有ります。
その為人間は、自立するまでに長いながい学習期間を必要とすることになりました。
高校を卒業するまで18年、大学は22年。卒業後も「生涯学習」が必要ですね(縁の無い人も居ますが)。

同時に学習・訓練の道に踏み込んだことにより、人間は脳の容量がドンドン大きくなって来ました。アウストラロピテクスの脳の大きさは、350〜500ccで、他のサルと同じでしたが、現生人類は約1400ccです。
特に脳の増大が顕著になったのは、ホモ・ハビリスの時代からですが、 わずか2〜300万年位の間に3倍或いはそれ以上になった訳です。こんな動物は他に有りません。

難産と早産

脳の増大は、人間のメスに難産と生理的な早産を宿命づけました。
人間の難産はご承知の通りです。産院中に響き渡るような大声をあげて子供を生む哺乳類は人間以外に有りません。これは決してイブが禁断のリンゴを食べたための、神からの仕置きのせいでは有りません。ひとえに脳の増大に伴う胎児の頭の大きさによるものです。

難産の理由として、直立2足歩行も挙げられます。
直立することによってヒトは、上からの臓器の重さを骨盤で支えることになりました。 内臓を支えると言う点では骨盤の開口部はなるべく狭い方が理想です。余り開口部が広いと、内臓が飛び出しヘルニアになりかねません。
しかし余り狭いと、今度は出産の際に胎児の身体、特に増大した頭が出ません。

早産も同じ理由からです。
人間の新生児と、他の哺乳類のそれとを比べて目に付くのは、あまりにも無力な人間の新生児です。
他の哺乳類の赤ん坊は、出産後30分もすれば立ち上がって歩き出します。イルカや鯨は出産直後に泳ぎ始めます。それと比べて人間の赤ん坊の「ひ弱さ」は異常です。
人間の一番の特徴である、二足歩行でさえ、生後10ヶ月を経ないと出来ません。

人間は、およそ10ヶ月から1年位早く生み出されるそうです。
本来は、もっと母体で育ってから出産される筈だったのが、それでは頭が育ちすぎて、産道と骨盤が持たないのです。
ぎりぎりのところで、早産すると言う事情らしいですね。

ひ弱で生まれ、その後の長い学習、これはヒトを取り巻く「社会」との切っても切り離せない有機的な繋がりを意味します。
社会から切り離されて育った「狼少女」の実例を見ても分かるように、社会は人間の本質そのものです。
(※最近知ったことですが、この「狼少女」の話は、どうも捏造だとのことです)

マルクスは『フォイエルバッハのテーゼ』の中で、「古い唯物論の立場は「市民」社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会又は社会化された人類である」と述べています。

■ 道具と人間-2

次に、と言うか「道具と人間」の最後は『道具と機械』です。
機械も広い意味で道具です。今まではその意味合いで述べて来ました。
しかし、ある具体的な局面では、これを分けて考える必要が有ります。

石斧、弓、金槌、ノコギリなどは「道具」であり、人間器官の延長です。主役はあくまでも人間であり、その技術です。
機械(自動機械)は、言わば人間器官の代用、代わりです。場合によって人間が居なくても、機械が自動的に仕事をしてくれます。

封建制のギルド的手工業から、マニュファクチュアを経て産業革命による大工業・資本主義に至る道筋は、道具から機械への移行でも有りました。
マルクスは『哲学の貧困』で、「手回し挽き臼は諸君に、封建領主を支配者とする社会を与え、蒸気挽き臼は諸君に、産業資本家を支配者とする社会を与えるであろう」と述べています。
今は蒸気の変わりに、石油と電気が使われています。その電気も原子力によっての発電がメーンになりつつ有りますね(危ない、アブナイ)。

資本主義的生産様式の特徴は、生産力の飛躍的な増大ですが、それは自動機械の導入、進化が多いに預かっています。
資本主義の中身については、「本論」の進展の中で述べたいと思います。

ここで一つの「思考実験」です。一緒に考えて下さい。
先に述べたように、機械は人間器官の「代わり」です。
実際テレビでも、自動車工場など、殆ど無人の作業現場でロボットが、「勝手に」材料運搬や溶接をして、黙々と生産している画面を見たことが有ると思います。

「道具」と違い、機械とその工場システムは非常に高価です。
この「生産手段」を社会全体が共有(生産手段の社会化)した場合と、特定の資本家が私有している場合で、同じ機械と工場がどう言う性格を帯びるか、これが問題です。

殆ど自動で、ドンドン生産を挙げているシステムがが社会的所有、つまり皆で共有したケースでは、直ぐに分かることですが直接生産に携わる時間が、大幅に縮小できることです。
労働者は、単純な工場作業だけでなくロボットの設計や、生産計画などのクリエイティブな仕事に、一緒に参加することになるでしょう。
そう言う中で、今までの「社長」や経営者などの優れた経営能力は、共同の経営にも多いに貢献することでしょう。使い切れない報酬のためよりも、やり甲斐と尊敬の為に。
そして、巨大な生産は「必要に応じて」皆が受け取る可能性が広がるでしょう。

それに反し、工場や機械が資本家の私的所有の場合(今はそうですが)、
自動化され、人員が必要なくなれば余剰労働力はリストラ、失業です。そうしなかったら競争に勝てません。残った少数の労働者は、機械に合わせた就労パターンで、往々にして労働強化、カローシが現実です。
さらに深刻な問題は、生産物は誰が買うか、と言うことです。
生産は機械が自動でドンドンやってくれますが、自動化が進めば進むほど、給料を貰う人、つまり購買力はやせ細ります。

上記のスケッチは、ものすごく大雑把で、実際はもっと具体的です。
でも「道具」と言う要素だけからも、色々見えてくることは沢山有ります。


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