史的唯物論スケッチ-3(奴隷制社会)

■ 奴隷制への移行-1

■ 農耕と牧畜

原始共産制からの続きです。
貧弱な生産力に照応した生産関係としての原始共産制も、その中で徐々にではあるが生産力が上がってゆきます。
その主な要因が道具の発達であることは既に述べました。「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」と言う歴史区分用語自体、道具の発達が社会全体の様相を変えてゆくことの、一つの証明でしょう。

同時に生産力発展の大きな転機になったのが、農業の発明でしょう。
今から1万数千年前、最後の氷河期が終わるに伴い、植物が繁茂し、獲物の動物も多彩にそして豊富になり、人間の採集狩猟も活発になってゆきます。
やがて地球上のいくつかの地域で、農耕や牧畜が始まり、次第に他の地域に広がってゆきます。
それまでの狩りなど採集経済と比較して、農耕と牧畜は食糧生産を安定的に増大させました。同時に、穀物は乾燥することで保存・貯蔵が可能となり、牧畜も獲物の「保存・再生産」を可能としました。
偶然に左右された、不安定な狩猟に比べ、人類は始めて餓死と隣り合わせの生活から脱却できるシステムを手にしたと言えるでしょう。

■ 搾取の可能性と奴隷制への移行

生産力の増大と保存の可能性は、その生産を搾取する可能性を生み出しました。
一人の人が必死に働けば、その人がカツカツ生きられるだけでなく、多少の余剰が出るまでになり、しかもそれを貯蔵できると言う条件の下で、始めて人を奴隷として働かせ、その余剰生産を搾取する余地が生まれてきたのです。
そして実際、約5000年程前に、地球上の先進地域で有ったエジプトなどで、奴隷制社会が成立します。石器から金属器への移行の時期に当たります。

生産力の発展が、原始共産制という生産関係から、奴隷制と言う新しい生産関係への移行を促したことになります。
逆に新しい生産関係への移行は、生産力のより高い段階への飛躍に道を開きます。
それまでの原始共産制では、争いごとでの捕虜は殺したり逃がしたり、つまり「無駄」にするしかなかったのを、奴隷として「活用」することが出来るようになったのです。

このことは戦争の性格も変えて行きます。奴隷の確保が戦争の主要な目的の一つになりました。
戦争の性格は常に、その時の生産関係を反映します。

奴隷の供給源は、戦争捕虜のほかにもう一つ、債務奴隷が有ります。
最初土地も作業も共同だったでしょう。共同体全員が力を合わせないと土地の生産的活用が出来ない程度に生産力が低かったのです。
しかし次第に、土地も牧畜も家族単位での生産的利用が可能になり、家族的所有の部分が増えてきたのでしょう。
私的所有の拡大経過の中で、所有と、従って分配の不公平が生じ、同じ氏族社会の中で片方に富の増大と、片方に自分の身さえ奴隷として売らざるを得ない立場を作り出したのでしょう。貨幣経済の進展がそれに拍車をかけました。
奴隷制社会の出現は、同じ共同体の中でも、搾取する側とされる側の、お互い利害の対立する二つの階級に分解・分裂したことを意味します。

生産力と生産関係、そして土台については、覚書5、6で述べました。
この土台を反映する形で、壮大な上部構造が形成されます。上部構造は土台の反映ですが、単に受身一方では有りません。一旦形成された上部構造は土台に反作用します。

以上「奴隷制社会」の一般的モデル?、について述べて来ましたが、実際は時代によっても地域によっても、その具体的状況はそれぞれ違います。
又、「奴隷制社会」と言ってもその社会の生産関係が、奴隷制一色で有る訳では有りません。その事情は、奴隷制についで展開される封建制、資本主義とも共通です。
例えばローマ帝国は世界史上稀なほど奴隷制を発達させたと言われますが、そこでも自作農民、地主・小作関係が混在し、ローマの富裕層(元老院議員、高級騎士など)による、ドムス(高級戸建て住宅)や土地への投資が盛んに行われていたと言われます。
つまり、現在の資本主義を髣髴させるような状況を含め、色々な生産関係が混在している訳です。

又、時代による変化も当然あるでしょう。
私たちが「古代エジプト」と言った場合、ピラミッドもクレオパトラも、何となく一緒のイメージとして括ってしまいそうです。
しかし、例えばクフ王のピラミッドは、クレオパトラからしてもおよそ2500年も前のことです。今の我々からすれば、卑弥呼の時代より遥かに昔の時代に当たる訳で、これを一緒くたに考えられないことはいわば当然です。

■ 奴隷制への移行-2

続きです。
「奴隷制社会」と一口に言っても、時代により地域によりその発展段階は様々であり、なかなか「一般モデル」で表すことが難しいと言えるでしょう。
しかし、人類が長い原始共産制を抜けた後、始めて搾取と言うことを覚えたとき、エジプトでもメソポタミアでも中国でも、又日本でも、最初に手にした生産関係が、もっとも単純な搾取形態である奴隷制で有ったことは間違いないことだったでしょう。

※ 「ピラミッド公共事業説」の真偽−吉村作治教授への、恐れ多い私的反論

ここで問題になるだろうと思われることが、エジプトの「ピラミッド公共事業説」、或いは、「そもそも古代エジプトの初期には、奴隷制は存在しなかった」説です。
原始共産制から、最初に抜け出した先進地域である「四大文明発祥の地」、特にその中で最も古く、かつ文明的影響も大きいエジプトで、若し奴隷制の存在に疑義があるとすれば、史的唯物論の根本にも関わることです。
この辺を、私なりに考えて見たいと思います。

■ ピラミッド公共事業説

早稲田大学の吉村作治教授率いる「早稲田大学古代エジプト調査隊」の、ピラミッド調査で、日本でもピラミッド・エジプト文明についての関心が高まったようですね。
その中で紹介されたこととして………、

ヘロドトス以来、ピラミッドは多くの奴隷を酷使して造られたと言う説が常識だったが、本当はナイル氾濫期の、自由農民を対象とした「失業対策」事業として、つまり造営そのものを一つの目的とした「公共事業」であったと言う説です。そもそもピラミッドの時代のエジプトに、奴隷制は存在していなかった、と言うのです。
その根拠として………、

  1. ピラミッド造営現場の近くから、工事従事者の宿舎群が発掘され、同時に小さなピラミッド型をした、労働者者用と思われる墓が発見された。
    奴隷に対し、王の墳墓と同じ形の墓を許可したり用意する筈が無い。
  2. 宿舎の遺跡からは、女性の骨、夫婦同居の跡が見られる。奴隷労働なら男だけの筈だ。
  3. 発掘された頭蓋骨の中に、外科手術をしたと思われる痕跡が見られる。当時貴族にしか施さなかったような高度な医療を、使い捨ての奴隷に施す筈が無い。
  4. ヘルワンの石切り場で発見された落書きの中に「クフ王万歳」とか「帰ったらビールを飲もう」「パンを腹いっぱい食べよう」などが発見される。鞭で追われながらこき使われる奴隷労働、と言うイメージからは程遠い。

    等など………、

要するに、ナイル川が氾濫して農作業が出来ない4ヶ月間の失業対策として、同時に国民全体の気持ちを一つにまとめる等の目的で、ファラオ(王)が行った公共事業だと言うことです。一人のファラオが幾つものピラミッドを造ったケースもこれで説明できる。
従って、建設労働者は奴隷ではなく、自由な国民が信仰心とファラオへの忠誠をもって、嬉々としてピラミッド建設に参加した、と言う訳です。

これは吉村教授の説というより、それまでのエジプト学の見解を、実際のピラミッド調査で補強し、日本にも紹介したと言うことでしょう。
この「ピラミッド失業対策・公共事業説」「この時期のエジプトに奴隷制は無かった説」は、関連書籍を見ても結構広く「定着」しているようです。

私は世界史や古代史について、全くの素人ですので専門家の上記主張に、どこまで対抗できるか自信は有りませんが、ここはやはり個人的にも上記主張をそのまま認める訳にはいかないものが有ります。
その辺について、私自身の見解を述べて見ようと思います。
皆さんからのご意見もお待ちしています。

※ 「ピラミッド公共事業説」への私的反論

  1. 奴隷制度の多様性
    最初に述べておかなければならないこととして、奴隷と一口に言っても実際は色々有ることです。
    ローマ帝国の時代の話ですが、アテナイオスという文人が、皇帝の2万人に及ぶ奴隷について言及しています。
    皇帝の着用する衣服の種類によって、使う食器の種類によって、装飾品の種類によって、或いは、化粧係、入浴係、マッサージ係、整髪係、髭剃り係、謁見に際してのカーテン係、案内係、名呼び係など、専門の奴隷グループにかしずかれ、さらにその中でもコップの種類によってそれを皇帝に手渡す奴隷が専門分化していたそうです。
    勿論宮廷の中だけでなく、租税徴収業務、請負業者の管理、直轄地の鉱山、石切り場の管理など、行政官としての役人めいた奴隷も多数居たとのことです。
    皇帝の解放奴隷の中には巨富を築くものも居たそうですが、おそらく奴隷時代の専門を生かしてことでしょう。

勿論圧倒的に多かったのは、過酷な肉体労働に携わっていた農奴や、映画「ベンハー」で知られるガレー船の漕ぎ手だったりしたでしょうが、時代が下るにつれ、奴隷主はますます肉体労働だけでなく、管理的な仕事からも離れ、それに伴ってその代わりとしての知的労働にも奴隷が従事するようになっていったのです。

  1. 「吉村説」への具体的反論
  • エジプトでも、宮廷で書記などの仕事をしていた奴隷も居たでしょう。ファラオの中にはそれに全て任せて、自分は文盲だったものも多かった、と書いてある文献もあります。
    ピラミッド建設に当たっても、ごく一部の特権的奴隷にとっては、結構「オイシイ」作業で有ったかも知れません。石切現場での、皇帝賛美の落書きにしても、その反映かもしれないし、或いは奴隷を管理している自由民の官吏が書いたのかも知れません。
  • そもそも、本当に苦役に呻吟している立場の下層奴隷が、難解なヒエログリフ(古代エジプト文字)を駆使して落書きなど残せる筈が有りません。落書きであれなんであれ、文字を書けた人はそもそも一部の特権的な部分だった筈なのです。本当に苦役させられている奴隷の声が、落書きとして残っていることは考えにくいと思います。
  • 又、奴隷と言っても必ずしも「使い捨て」などでは有りません。奴隷は貴重な資源でした。特に戦争があまり無く、奴隷の供給が滞った時期にはなおのこと貴重でした。
    そう言うときに、男女の奴隷同士一緒に住まわせて奴隷の再生産を図ることは、当然に考えられたことでしょう。奴隷労働の現場で、男女の住まいが有ったとしても少しも不思議なことでは有りません。どの道ナイルの氾濫期は女奴隷も農作業が出来ない訳だし。
  • こう言う状況の中で、特権的な奴隷や、そうでなくても奴隷の損耗を防ぐ意味で、外科手術を施すことは、必ずしも有り得ないことでは有りません。
    どの程度「丁寧」に、患者に配慮しながらやったかは知りませんが………。
    うがった見方をすれば、実験台に使ったのかも知れないし。
    ピラミッド型の労働者用の墓にしても、若し奴隷に許されないとして、では自由農民に許されるか、と言うことを考えたら可笑しなことです。
    そもそも吉村隊自体、ピラミッドの目的はファラオの墳墓とは言えない、と言う見解ですからこの辺の整合性がつきません。

※ 吉村説で説明不能な問題

以上見てきたように、「ピラミッド公共事業説」の根拠とされている項目は、必ずしも奴隷労働を否定するものでは有りません。
100歩譲って、自由農民に対する失業対策を目的とした公共事業だったとしましょう。
では、その経費はどこから出たのでしょうか。
ヘロドトスの言によれば、10万人の人が20年間かけて建設したとあります。吉村教授たちの計算ではそれより内輪の計算のようですが、いずれにしてもこの「公共事業」の経費は莫大なものです。
仮に直接ピラミッドを造ったのが奴隷でないとしても、それを支えたのは数多くの農奴の生産で有ったでしょう。

■ 「エジプトに奴隷制が無かった説」には、やはり無理が有る

上記でも書きましたが、一口に古代エジプトと言っても何千年に及ぶことです。その間に奴隷制の変遷もあるでしょう。
しかしエジプトに奴隷制が有った事は間違いありません。
「十戒」で知られるモーゼのエジプト脱出劇も、エジプトで奴隷とされていたイスラエル人を「約束の地」カナンまで導いた物語です。

繰り返しますが、人類がそれまでの原始共産制から、始めて搾取と言うことを覚えたとき、封建制でもなく勿論資本主義でもなく、一番単純な搾取形態である奴隷制から始まったことは、エジプトでもメソポタミア、中国、日本など、地域を問わず先ず疑問の余地の無いことだったと思います。


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