観念・精神の働き

■ 物質と観念

物質と観念は哲学における最も基本・重要なカテゴリーです。
物事をトコトン突き詰めて考えて行った時、最後にそれ以上分けて考えられない二つの要素、それが物質と観念です。
世界の全ての事柄は、このどちらかに分類できます。

そしてこの二つの要素、物質と観念のどちらが世界の根源であるかをめぐって、哲学は唯物論と観念論の二大陣営に分かれます。
勿論、唯物論は物質が世界の根源であり、全ての観念的なものはそこから派生したものだと主張します。

唯物論、観念論を超越したり、或いは融合したと言う「第三の哲学」、「中立の哲学」は、当人の主張は別として、現実には有り得ません。

唯物論で言う物質
最初に哲学で言う「物質」とは他の学問、例えば物理学などと比べても最も幅広い概念です。
例えば物理学の一部では、質量の無いもの(光、エネルギーなど)は物質ではない、と言う主張の人もいます。
同じことですが、ボースであるかフェルミであるかが、物質か非物質かの分岐であると主張する立場が有ります。

しかし弁証法的唯物論は、これら全てを含めて物質であり、存在形式が異なるだけだと主張します。又、最近物理学で話題となっている、真空、場なども含めて物質的な存在だと主張できるでしょう。
さらには、国家、階級なども「意識の外に存在する客観的実在」として、物質的な存在に含めます。
逆に、「クオリア」などは物質、客観的実在には含められないでしょう。

物質については、こちら参照。

■ 物質の根源性と、重要性はこの場合無関係

重要なことは、唯物論が物質を根源的なものだと主張することと、物質の優位性、物質が大切だと主張したり、精神の働きを軽視し、二次的なものとする主張とは全く関係ないということです。 そう言う価値判断、価値命題を一切含みません。
ここをハッキリしておかないと、混乱が生じ、観念論に付け込まれる余地を残します。

例えば、子供を生んでいない個人・夫婦は幾らでもいますが、親なしに生まれた子供はいません。その意味で親が根源であり、子供は親から派生した関係と言えます。
しかしだからと言って、子供より親の方が大切だなどとの主張はナンセンスです。
或いは建物の土台と、建物自体との関係でも同じことでしょう。

同じように、物質と観念のどちらが根源的であるかと言うことと、どちらに価値が有るかと言うことは次元の違うことで、唯物論はそう言う価値命題を含みません。
観念論者はこの点を故意に混同して、「唯物論者は、愛とか先祖を敬う気持ち、自然への畏怖などを無視し、世界は単に物質の集まり、人間はタンパク質の集まりと説く、タダモノ論に過ぎない」と攻撃してきます。

フォイエルバッハがヘーゲル哲学に抗して、唯物論を主張したにも関わらずそれを貫けなかったのは、当時のドイツ唯物論が事実上、タダモノ論と呼ぶしかない程度の俗流唯物論であり、その中で唯物論者として徹底することに躊躇が有った為でもあります。

■ 唯物論は精神の力を重視する

唯物論は、物質を世界の根源だと主張しますが、精神の果たす役割を極めて重視します。。
例えばここに病気の人がいたとします。

観念論的な立場から言えば、その原因を悪霊のタタリだとかキツネつきだとか、心の持ち方などに求め、その解決も又、おまじないやお祈りで霊を慰めたり、お祓いをすることになります。
現代でもなお、水子霊のタタリが言われたり、「霊験あらたかな」壷が何百万円で売られたりしています。また天中殺だの何だのとノタマウ御仁が、TVでおおっぴらに登場し持ち上げられています。

唯物論は、病気の原因を病原菌やウイルス、或いは不衛生など、物質的な問題に求め、その解決も又、具体的に物質的なものに求め、その為にこそ、精神の力を総動員します。
つまりは原因と解決についての探究心、研究に対する意欲、継続する意思など。

ストレスは様々な病気の引き金になるものですが、ストレスも又多くは仕事や社会、総じて経済的な基礎にその原因を持っています。
勿論「気の持ち方」で一時的に快方に向かう場合も有りますが、根本的には環境の改善が必要です。
社会の変革とはそう言うことであり、そのことの為に犠牲をいとわず意思の力を発揮している唯物論者が大勢います。

■ 観念論者の「精神論」こそ空虚

逆に精神や愛の重要性を、口で説いている観念論の主張こそ、その中身は空虚です。
ブッシュはキリスト教原理主義、ネオコンだということですが、十字架の前では「敬虔」な彼が、実際にやっていることはこの上ないダブルスタンダードで残酷な人殺しです。

創価学会が「人間主義」などと標榜します。
この「人間主義」とはなんでしょうか。「人間」と言ったから人間を大事にすることになるのでしょうか。
ブッシュも人間、ヒトラーも人間、小泉も人間です。或いは市井の善良な庶民も人間です。
人が人を喰う資本主義の世界で、その物質的な存在、階級、立場に基礎を置かない、単なる「人間」など、この世に一人もいません。そのような抽象的な「人間」など、頭の中に空想することさえ出来ません。

人は単なる抽象的な「人間」としてなど、生きてゆくことは出来ません。
必ず、労働者として生きるか、農民として生きるか、アルバイトとして生きるか、資本家として生きるか、そう言う具体的な連関の中でだけ、人間として生きてゆけるのです。
居るのは全て、現実世界の具体的連関に生きてきる、一人ひとり具体的な人間だけです。

実際に「人間主義」を唱えている名誉会長が何をやっているか、団体としての創価学会が何をやっているかを見れば、その「人間主義」のいかがわしさが分かると言うものです。

■ 意識の起源

■ 最初から意識が有った訳では無い

意識は生物進化の過程から
冒頭述べたように、唯物論は物質の根源性を主張し、観念論は精神の根源性を主張します。
ではどちらが正しいか。それは歴史を遡ってみれば明らかでしょう。

人間に意識が有ることは当然です。
他の動物に同じような意識が有るかどうか、これは一般的に言ってなかなか難しい問題です。
カラスなどが相当の知恵を働かせているらしいことは、色々な目撃から察せられます。
イヌなどのペットと「心が通い合う」経験をしている飼い主も大勢いることでしょう。

人間と一番近縁なチンパンジーやボノボ、特に実験観察用として訓練された、例えば天才ボノボ、カンジや、京都大学霊長類研究所のチンパンジー、アイなどは、言語訓練の成果と思われる概念思考の萌芽さえ見られます。

人間とチンパンジーは約700万年ほど前、共通の祖先動物(プロコンスルと考えられている)から枝分かれしたと言われているが、プロコンスルに意識と呼べるものが有ったかどうか、これは多いに疑問となるでしょう。
さらには、哺乳類の祖先につながる両生類、爬虫類の共通祖先とされているイクチヲステガ、さらに脊椎動物の共通祖先とされているピカイアに、意識と呼べるものが有ったとは、多いに疑問となるでしょう。
さらには単細胞時代、細菌状の祖先時代に、意識と言えるようなものがなかったのは明らかです。

もっと遡って、化学進化段階の海の中でのアミノ酸状態、さらには有機物、それを構成する炭素、酸素、水素、窒素に意識がなかったのは自明のことです。
宇宙と地球、そして生命の歴史を逆に遡って見て行った時、最初から意識が有った訳ではありません。

創造説を信仰している人を除き、普通に、素直に地球の歴史をたどれる人にとって、物質に先立っての意識など無かったことについて、異論が無いことは自明のことでしょう。

意識と、環境反映能力
しかし、意識を持たないと思われる下等生物、細菌も含め、回りの環境を反映する能力は持っています。例えば大腸菌を寒天培地に置き、ブドウ糖を垂らせばそのブドウ糖濃度の勾配を反映して、その方向に向かいます。
生物だけでなく無生物も回りの環境を反映します。
日向に置いた石は、日陰に置いた石に比べて暖かくなりますが、これは石が置かれた環境を反映したものです。

意識は、この無生物さえも持っている「環境を反映する能力」が、生物進化の過程で発展してきたものです。
生物の進化に伴い、環境を反映する専門の感覚器官が独立分化し発達します。
視覚を司る眼、嗅覚を司る鼻………等など。
感覚器官の発達は、その中枢としての神経器官、脳の発達を伴います。

取り分け人類の誕生以降、人類による共同労働と道具の製作・使用、及び言語の使用は、意識の急速な発展を促しました。

意識についてはこちら参照。

■ 意識、連続と飛躍

このように「意識」は、無生物さえも持っている「環境を反映する能力」が、生物進化の過程で進化・発展してきたものです。
同時に、社会的な存在としての人間の登場によって、「道具、言葉」を通して、他の動物とは質的に異なる発達段階、特に他の動物には見られ無い「概念的思考」を発達させるところにまでに達したのです。

意識、を考える場合にも「連続と飛躍」、つまり弁証法的に見る必要が有るでしょう。
このことは重要です。
若しこの「連続」を忘れ、人間の意識を他の動物のそれと切り離し、特別なものとしてだけ考えると、それは人間の存在を、なにか神秘的なモノに祀り上げてしまう危険が有ります。
しかし同時に、「飛躍」を認めず、人間の意識を他の動物たちとの単なる延長と考え、その違いは単に程度問題だとするなら、 それは人間にだけ特有な「社会」を、他の動物の群れと同一視し、人間社会の中に、生物進化の法則とされる「自然淘汰」「適者適存」或いは「弱肉強食」などを持ち込むことを合理化してしまうことになります。

「社会ダーウィニズム」とは、そうした生物進化の法則を、一段高次の運動形態である社会に、機械的に適用しようとする極めて有害な思想です。
ナチスドイツ時代の「優生思想」はその最悪の現れです。

 

※ イタリアに於ける「悪魔払い」 (2005/12/16)

上記を補強する記事が丁度翌朝有ったので、それについて追加します。

朝日新聞(2005/12/16)8面に、

「悪魔払い」知りたい-若者・女性・医師
バチカン公認の大学「エクソシスト」講座と言う記事が有った。

内容は、今イタリアで魔術師や霊媒師を頼る人が増えており、バチカン公認の大学で、悪魔払いを行う「エクソシスト」についての講座が、一般の人にも人気だ。
その背景として、若者の間で悪魔崇拝が流行していること、テロなどをによる不安感が有るということである。

同大学によると「悪魔払いの希望者が急増しているのに、エクソシストが全く不足しているため」だそうな。
イタリアには300〜400人のエクソシストがいるが、悪魔払いを求める人は年間数十万人にのぼるという。
「赤ちゃんの夜泣きが止まらないのは悪魔のせいだとか、夫が暴力的だとか言って駆け込んでくる人も多い」そうだ。
又、若者の間での「悪魔崇拝組織」への加入が急増し、各地で犯罪を犯している。
事件後「悪魔を崇拝するうちの子を何とかしてほしい」と協会に助けを求める例が増えていると言うことである。

中世の魔女狩りを髣髴させるような、正に観念論的蒙昧を絵に描いたような深刻な事象だろう。

例えば「赤ちゃんの夜泣き」を例に考えてみよう。
赤ちゃんは泣くのが仕事、などと言われる位だから、多少のことはそれ程深刻に受け止めなくても良いかも知れない。
しかし、母親が「悪魔が付いているかも知れない」と考える程に泣き喚き、泣き止まないとしたら、そこには必ず「物質的な」原因が有る。 つまり空腹、病気、痛い、痒い等などの、主に身体的な原因が。

母親が考慮すべきはそう言う物質的な原因の究明であり除去だ。
母親はその方向に「意識の力」を使うべきなのだ。決して「悪魔払い」などではない。

赤ちゃんからすれば、空腹や病気による苦痛を、悪魔のせいにされ、真の原因は放っておかれて悪魔払いをされてもこの上ない迷惑な話だ。

さらには、泣き喚く赤ちゃんを「悪魔払い、悪魔退治」とばかり、折檻し殺してしまうかも知れない。全く罪の意識なしに。
有り得ないことではない。本当に悪魔の存在を信じた人ならやりかねない。中世の歴史がそれを教えてくれる。
深刻なことだが、今後そう言う痛ましい事件が起きるだろうと予測せざるを得ない。


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