物質と意識についてのスケッチ

唯物論と観念論

唯物論は、物質を世界の根源として認め、精神或いは意識、思考など、総じて観念的なものは、その物質に根拠を持って派生したものだとする世界観です。
具体的には次のような内容を持ちます。
1)、物質が精神から独立に、客観的に存在することを承認する。
2)、精神は物質から生じたとすること。具体的には最高度に発達した脳髄の働きによること。
3)、客観的実在としての物質世界は、人間の精神に反映されることで認識されるとする(反映論)。

観念論は逆に、物質・自然に対する精神の根源性を主張し、物質・自然など、現実の世界は何らかの形で精神、観念から派生したものだとする世界観です。

「全ての哲学の、特に近世の哲学の、大きな根本問題は、思考と存在とはどう言う関係に有るかという問題である。<中略>
この問いにどう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した。『フォイエルバッハ論―エンゲルス』」

上記のように唯物論は、客観的実在を認め、これを世界の根源と主張する訳ですが、この主張は、「意識・観念に対する、物質の優位性」と言うことを、些かも含みません。

人間の意識は、その外に有る客観的実在を有りのままに反映し、正しい認識を得ようとします。
必ずしも常に正しく反映できる訳ではないにしても、それを理想とします。

科学も唯物論と同様、客観的実在を認め、それを対象としてその姿を有りのままに意識に反映しようとする点で、立場を共通にします。
敢えて科学と唯物論の違いを挙げれば、科学は個別実証的な性格を持ちます、つまり扱う領域が専門分化しておりなおかつ具体的・実証的であることでしょう。
唯物論哲学は、実証的諸科学が達成したそれぞれの領域における、いわば個別的な認識・法則を総括し、より普遍的・一般的な反映を目指します。

諸科学が挙げた個別的な達成は唯物論の内容をより豊かにし、より一般性、普遍性を高めます。
より一般的普遍性を獲得した哲学は、逆に個別的諸科学が未知の領域に踏み出す際に、そのなによりの道標となるでしょう。
科学と唯物論はそのような関係で有るべきだと思います。

往々にして科学はその専門性故に、ややもするとその専門にとらわれ、全体との連関を見失う危険を孕みます。
特に企業における研究・プロジェクトがそれぞれの最先端分野に応じて、極端に専門分野化しており、教育も又、自然と社会についての基礎的知識の習得を軽視し、直ぐに役立つ知識だけを重視する傾向にあることも、その危険性を大きくしていると言えるでしょう。

旧聞に属しますが、オウム真理教でサリン事件などを起こした若者が、みな高学歴で高い科学的知見を持っていた集団だったことに、日本中が驚いたことがあります。
私は彼らの科学的知識が、全体の連関から遊離し、悪い意味での「専門性」に陥っていたことに一つの原因があることを、あの上祐 史浩を例に述べたことが有ります。
彼らも有る意味で、現代の教育と社会環境の犠牲者でも有ったのでしょう。

「オウム真理教に見る弁証法の欠如」参照

同時に唯物論の側も又、常に諸科学の到達点に関心を持ち、いわゆる「地に足が付いた」立場を堅持することに留意すべきでしょう。
マルクスは大英博物館の図書館に20年間通いつめ、当時のあらゆる分野の到達点を極めた上で、あの資本論を著したそうです。

マルクスの時代から150年、特に自然科学の分野で爆発的とも言える程の進歩を遂げた現在、如何にマルクスの天才を持ってしても、その到達点を個人が網羅することはもはや不可能となっています。しかしやはり姿勢としてはそう有るべきだと思います。

マルクスやエンゲルスの残した「言葉」を単に丸暗記して、それで唯物論哲学を身に付けたと勘違いしている「マルクス主義者」が居ますが、それは観念論的な「唯物論」理解だと言えるでしょう。

日本共産党が「マルクス・レーニン主義」の呼称を止め、「科学的社会主義」としたのも、一つには、上記のように科学と唯物論の共通性を意識してのことだと思います。

同時にマルクスやエンゲルス、或いはレーニンが如何に偉大で天才的な仕事を成し遂げたにしても、やはり個人は時代の子であり、その限りでは時代の制約を受けざるを得なかった訳で、人類の歴史に伴って限りなく発展すべき科学と唯物論哲学に、個人の名を冠することを妥当としなかったことも有るのでしょう。

マルクスやエンゲルスの最も偉大とするところは、認識と真理の基準を「人間の頭の中」、(勿論マルクスやエンゲルスの頭の中も含めて)におくのでなく、客観的な物質世界に確固として打ち立てたことに有るのだと思います。
だからこそ、限りなく発展する諸科学と連携しながら唯物論哲学も又、限りなくその内容を豊かにすることが可能になった訳です。
マルクスとエンゲルス、或いはレーニンは、やはり偉大です。

かって哲学は「万学の女王」として、個別的実証諸科学の上に君臨していました。
科学が未発達で世界の姿とその連関についての人間の認識が浅かった時代、その連関の欠落部分を「人間の頭の中で、紡ぎだして繋ぐ」しか方法が有りませんでした。
それがいわゆる「自然哲学」であり、「哲学」一般でした。
だからこそ「哲学」は、それを主張する哲学者の数だけ存在した訳です。
プラトン哲学、ヘーゲル哲学、カント哲学等など………。

科学の進歩・発展に伴い、世界の姿とその連関は科学の力そのものによって、実証的にますます明らかになって行き、それに伴い「頭の中で紡ぎだす」余地、必要が無くなって行きます。
唯物論は、科学の進歩発展に伴い唯物論自身、次第に眠り込んで行くだろうと展望します。
その後に弁証法と形式論理学だけは、哲学として残るだろうと主張しています。
この二つを他の実証的諸科学に解消するのは適当でなく、やはり哲学の仕事として残すのが妥当だろうと言うことです。

真理とは、或いは認識可能性について客観的実在と、その反映である意識内容が一致した時、その意識内容を真理とします。このことも又、科学、唯物論共通です。

真理の検証は実践、つまり客観的実在と意識内容の相互作用です。
実践の裏づけ(実験や観察による追試など)が無い間は、仮にいくら説得力ある理論であっても「仮説」の域を出ないでしょう。

※ 
「………出ないでしょう」との曖昧な言い方しか私ができないのは、例えば進化生物学など、実験による再現が困難な歴史的な問題。或いは宇宙の成立過程のような、追試不可能な問題について、どこまで「状況証拠」「思考実験」を持って、真理とすることが出来るか、私自身ハッキリ分らないからです。 まして、客観的実在(物質、現実)に根拠を持たない、単なる頭の中での「考え」、口先だけの主張を「真理」と呼べないことは当然です。 そう言う主張は「妄言」「俗論」と呼ぶべきでしょう。
Yahoo掲示板などでの書き込みに、特に観念論者を自称する人たちの中に、こう言った俗論を多数見ることが出来ます。

■ 世界の認識可能性―不可知論の問題

「思考と存在の関係」は、観念論と唯物論の立場の違いと共に、哲学の第二の側面として、「では人間の思考は、存在を正しく認識しうるか?」と言う問題を提起します。

「思考と存在との関係いかんという問題は、しかし、今一つ、他の側面を持っている。すなわち、われわれを取り巻いている世界についての我々の思想は、この世界そのものといかなる関係に有るのか?
我々の思考は、現実の世界を認識することが出来るか、我々には、現実の世界についての我々の表徴の中に、現実性の正しい映像を作り出す能力があるのか?『前掲、フォイエルバッハ論』」

唯物論、及び観念論でもヘーゲルなどは「認識し得る」とします。
しかし、一部の観念論は「認識できない」として、不可知論の立場を形成します。
その辺は以下を参照のこと。

「世界の認識可能性の問題」

ここでも強調されていますが、不可知論に対する最大の反駁は実践です。つまり「やってみれば決着が付く」のです。
そして又人間が、基本的に客観世界を認識し得ることの、何よりの証拠は700万年とも言われる人類の歴史そのものです。

人類はその歴史を通して、基本的に世界を正しく認識し得て来たからこそ絶滅を免れてここまで発展して来れたのです。
間違った認識に基づいての実践は、客観世界の抵抗に遭って失敗します。そのようなことを繰り返していたら、人類はとうの昔に絶滅していたでしょう。

唯物論は認識と真理の基準を、客観的実在に求めます。
従ってその主張は個人の主観に依存することなく、客観性を帯びざるを得ません。
主張する人により見解が異なる場合、それはその主張がまだ客観的実在に収斂されていないことによります。

客観的実在を正しく反映していない「理論」に基づく実践は、客観的実在の抵抗を受けて失敗せざるを得ません。
そう言う経験を通して、異なる見解も次第に客観的実在に収斂されてゆきます。
そのようにして「真理」或いは「法則」が確立されて行きます。

従って真理・法則は客観的実在を正しく反映し、かつ実践の検証を経たものであり普遍性を持ちます。
「水素2分子と酸素1分子を化合させれば水が出来る」と言う法則はアメリカでもイラクでも日本でも北朝鮮でも、或いはブッシュがやってもフセインがやっても、観念論者の誰がやってさえも妥当します。


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