動物と人間の思考


「動物は考えられるのでしょうか」と言うテーマでトピックスが建っていました。
そこに書き込んだ一連のものを掲載しました。

1 動物は考えられるか

人間以外の動物に考える力、思考力が無い、との主張には無理が有ると思います。
私は犬や猫などペットを飼っていませんが、飼っている人からすれば素直な実感でしょう。
様々な観察記録や実験結果からも、動物には意外と高度な判断能力、思考能力が有ることが認められているようです。

犬が飼い主を覚えていると言うことさえも、単に目先の感覚の域を超えています。
つまり過去の(飼い主の)感覚が記憶されており、今その記憶が呼び戻されて、目先の(飼い主の)感覚との比較がなされ、同一性の判断がなされている訳です。
そしてその相手によって、どのように対処すべきかが判断できる訳です。

若し「思考能力」が人間だけの物だとすると、人間だけを神聖なものに祀り上げてしまう危険が伴います。
同時に、人間の意識・思考と他の動物のそれとの「質的な違い」も又、認めるべきだと思います。

犬やオオカミ、或いはチンパンジー、それにカラスなどが、思いがけないほどの「思考能力」を示すことは観察で認められていますが、しかし人間の思考と比べた時ハッキリした違いが有ります。

それは彼らの思考が、常に具体的・個別的であることでしょう。
つまり、解決すべき課題が具体的状況として与えられる必要が有り、それを解決する思考も常に具体的な手段と具体的な行動によると言うことです。

高いところに吊るされたバナナを見て、そこに有る踏み台などを使って取ることを、チンパンジーは具体的に「考えて」解決しますが、「高いところにある食べ物を取るにはどうしたら良いか」と一般的抽象的に問題を建て、「何か台を使ってその上に乗って取れば良い」と、一般的抽象的に解答を出すことは出来ません(おそらく)。
つまりは感覚に直結・依存した思考とも言えるでしょう。

それに比べ人間の思考は、一般的・抽象的思考です。
これは言葉の力でしょう。つまり人間の思考は言葉を使った「概念的思考」です。必ずしも感覚に依存しません。
だからこそ「愛」だとか「友情」、「哲学」「動物は考えられるか」等と言う、感覚で捉えられない事柄を考えられる訳です。

逆に、人間は言葉を持った為に、純粋な「感性的思考」を失ったとも言われます。
ヤカンに触って、思わず手を引っ込める際にも必ず「アチッ!!」と言う言葉と結びついて「感覚」します。
そう言う意味で私は「クウォリア」には懐疑的です。

大分前になりますが、TVでスー サベージ・ランボー博士らによる、天才ボノボ、カンジとパンバニーシャの訓練、観察記録を見ました。
カンジが言葉を覚えるにつれて抽象的な思考が発揮されて行くのを、興味深く見た記憶が有ります。

そのことは、京都大学霊長類研究所での松沢 哲郎博士達の、アイ、アユムなどの訓練・観察でも同じことが見られるようです。
(勿論こう言った場合、声帯などの制約から、キーボードを使っての言語訓練です)。

私は、感覚、認識、思考など、総じて意識は「環境を反映する能力」の発達として、人間を含めた全ての生物に共通なものとして、(量的な違いは有るにしても)連続的に捉えるとともに、言葉を持った人間だけにある概念的思考を認め、そこに飛躍を認めることが大切だと思っています。

2 連続と飛躍

連続

上記で、私は「感覚、認識、思考など、総じて意識は『環境を反映する能力』の発達………」と書きました。

No.106 K さんの「コイ」のエピソードが本能で有るか条件反射で有るか、少なくとも「考えて」いるとは言えないと思いますが、そう言った本能や反射、更には植物が光を求め、重力に逆らう性質なども含めて、全て「環境を反映し、それに適応」しているのだと思います。

環境とその変化を反映できなかった種は、その環境に適応できず絶滅したのでしょう。
最も単純な生物に属する大腸菌でさえ、その培地にブドウ糖を垂らすと、その濃度勾配を「反映」して、その方向に移動するようです。

「反映」の仕方はそれぞれの生物の生存様式によって当然変わってくる訳で、例えば昆虫などは本能を極端に発達させる方向に進化しました。
昆虫はその多くが、卵は産みっ放しで親子あいまみえることなく、生存期間も短い為(大半がワンシーズンでしょう)学習・訓練の機会も、その蓄積も得られない状況で、本能依存に特化したのでしょう。

ヒメバチの母親は、長い産卵管で地中の芋虫の体内に産卵するそうです。
芋虫の体内で孵化したハチの幼虫は、芋虫を内側から喰って行くのですが、ここで驚くべきは芋虫の致命的な部分は残して、脂肪だとか靭帯部分などから喰って行き、芋虫は生かしておくのだそうです。
芋虫がサナギになると共にヒメバチの幼虫もサナギになり、最後完全に芋虫を喰い破ってヒメバチは成虫として羽化し、今度は別の芋虫の体内に産卵する訳です。

この一連の行動、特に自分が生み付けられた場所を、ヒメバチは一度も母親や他の個体から学習していません。
この例は本能特化の、あまりにも見事なケースとして有名です。

逆に鳥の仲間の多くは、親からの学習と言う方向で進化したようです。

ある程度高等な(こう言う言い方はマズイのかな-複雑な)動物は、環境を反映する為の専門器官、つまり感覚器官を発達させて来ました。
そこにも生存様式の違いが反映されていて、空から餌を見つけるワシなどは視力を発達させたし、地上に近いところで歩く犬は、視力よりも嗅覚を発達させました。

感覚器官の発達は必然的に、それを司る中枢神経系の発達を促します。
総じて高等な生物ほど、身体の大きさに比較して大きな脳を持っていることになります。
ここまでの事情はヒトも、他の動物、特に類人猿達と共通であり、「連続的」なことだと言って良いでしょう。
他の動物達の「思考能力」だけを否定する根拠は、特に無いだろうと思う次第です。

飛躍

今現在分っていることとして、ヒトがチンパンジーとの共通の祖先から枝分かれをしたのが、約700万年ほど前とされています。
最近その時代のヒト頭蓋骨化石がチャドで発見され「トゥーマイ」と名付けられましたね。
発見場所が、従来人類発祥の地とされた大地溝帯の東側でなく、中央アフリカのチャドであったと言うことで、いわゆる「アクア説」がより信憑性を増した訳で、私もその説に1票なのですが、それは兎も角として………、

400万年前位のアウストラロ・ピテクスでさえ、脳の大きさに殆ど変化が無く、350cc〜500ccとされています。現生人類は約1400cc。
その後僅か4、500万年の間に人間の脳は、およそ3倍、或いはそれ以上になった訳で、そんな動物は他に有りません。祖先を同じくするチンパンジーやボノボも、殆ど変わっていない筈です。

そこに私は「連続」だけでない人間だけの「飛躍」を見る訳で、問題はその要因が何で有ったかということです。
勿論、人間だけが神に選ばれた存在であったり、最初から特別な存在でなかったことは、上記の経過を見れば分ることです。

結論から言うと、「道具を作り、使って労働する」道に踏み出したことでしょう。
それと上記 でも少し触れた「言葉」の発明でしょうね。
道具の使用を可能にしたのが、直立二足歩行であり、したがって他の類人猿とヒトとを区別する指標となっている訳ですが。

道具を作ると言うことは、必ずそれを使う時のことが意識されなければなりません。
或いは、例えば石器を作るために黒曜石を削る時、目の前の石の硬さと言う、既に在る性質を直接反映するだけでなく、鋭さと言う、未だそこに無い性質も、同時に反映する必要が有ります。
つまり、目の前の状況を「感覚」するだけでなく、想像と言うか、感覚を超えた「意識する力」が鍛えられたのでしょう。

それと言葉による、抽象的思考の発達ですが、これは省略します。

道具の使用による労働の道に踏み出したと言うことは、もう一つ大きな意義が有ります。
道具は「身体機能の延長・代用」です。
ヒトは鋭い爪も牙も、速い足も、空を飛ぶ羽も持ってはいなかったけれども、道具を作ることで全て代用してきました。

重要なことは身体機能の延長・代用でありながら、道具の進化には遺伝子の変異を必要としないことです。
人間の知恵と技術の進歩に伴って、急速に限りなく発達させることが出来るし、着脱も自由です。その点で、鳥の羽や白熊の毛皮とは違います。

言葉も道具の使用による労働も、単に個人的なものではなく社会的なものです。
ヒトはこの道に踏み出したことによって、本能からの脱却を(ほぼ)果たし、代わりに社会の中での、長い教育・学習の必要に迫られることになった訳です。

道具の使用とほぼ平行し脳が巨大化してゆく訳ですが、このことは直立二足歩行と相まって、ヒトのメスに難産を強いることになります。
直立することで、骨盤は内臓の重さをほぼ全て下から支えることになります。
このことだけで言えば骨盤の開口部は極力狭い方が好都合です。あまり広いと内臓がその開口部から飛び出し、ヘルニアになりかねませんからね。

しかし狭いと今度は胎児、特にその巨大化した頭が出られません。
と言うことで、ヒトはギリギリのところで早産することになったらしい。本来の出産時期に対し、およそ10ヶ月から1年位早く生み出されるということのようです。

他の哺乳類が出産直後20分もすれば、ヨロヨロしながらも立ち上がるのに対し、ヒトの新生児が何とか歩き始めるのが、ほぼ10ヵ月後位ですから、まあそんなところでしょう。

他の動物が、生まれながらに既にその動物として存在できていることと比較して、ヒトは生まれただけでは、ヒトとしての最も基本的な特徴である、直立二足歩行さえ出来ません。
ヒトとしての動物的特長さえままならない、極めて無力な状態で生まれると言っていいでしょう。

ヒトは社会の中で有機的なつながりを持ちながら、長い教育・学習を経ることで初めて人間になる訳です。
そのことを残酷な形で逆に証明したのが、アマラとカマラの「狼少女」だったと言うことでしょうね。

彼女達も生まれたときには、他の新生児と同じく「人間としての資質」は持って生まれた筈です。しかし人間の社会から切り離されて育てられた。
そのことによって、彼女達の脳に、社会的なプログラム、ネットワークが築かれなかった。
そしてそのことは単に、彼女達の意識や知的能力が育たなかったと言うに留まらず、身体まで人間的特徴を損なった形で育ってしまったと言うことです。

(最近この狼少女の話が、 真っ赤な嘘、つまり捏造であったらしいことを知りました。若しそれが本当なら罪なことです)

「人間は社会的な存在だ」と言う言い方は、単に社会の中で暮らしていると言う外的なものでなく、社会は人間そのものの内面だ、と言って良いと思います。
狼少女の例だけでなく、最近のいわゆる「ネグレスト」でも同じことが言える訳で、社会を荒廃させたまま、単に「人間性」の重要性だけ説いても、あまり意味が有るとは思いませんが皆さんどうですか?

言葉と、道具を使っての労働への道、総じて社会的な存在、これが他の動物からの、人間だけの「飛躍」だと思います。

他の動物との「連続」を認めることで、人間の神秘性への祀り上げを批判するとともに、「飛躍」を認めることで、社会ダーウィニズムや優生思想など、動物進化の法則や遺伝の法則の、安易な社会への持ち込みに反対する。
両方を統一的に考えることが大事なんじゃないかと思う、「今日この頃」です。


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